蕩れ

xx_7
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朝起きると右耳が外界の音を遮断していた。昨日天候が荒れていたときから予想はしていたし、私にとっては日常茶飯事で戸惑うようなことではなかったはずだ。普段通りなら明日には治っているから、塾の仕事に影響は出ないだろう。それなのに少しだけ憂鬱だったのは、大好きなきみの声を拾い切ることができないかもしれないと思ったからだ。少し低くて艶のあるあなたの優しい声色は、高い音ばかり拾う少し特異な私の耳とは残念ながら相性が悪い。人の声が篭って聞こえることに元来そこまで不便を感じなかったけれど、きみの声だけは、そのまま受け取りたいと思った。

何度か寝て起きたら先程より周りの音がはっきりと聞こえて、耳が正常に機能を取り戻したのだと安堵する。と同時に、きみとの約束まであと1時間ほどしかないことに気がついた。昨日買ったばかりの服に足を通してみるけど、なんだか私ではない何かになろうとしているみたいで、むず痒い。あなたの好きなタイプが私と真逆であることに少なからず頭を抱えている。どうして君がこんなにも私を好いてくれているのか、ずっと不思議でいる。

「なんかもう、統計切りませんか?」

恐らくただの冗談として放たれた言葉に、わたしの心が揺らぐ。奪い取って掛けた眼鏡のおかげで、いつも以上にあなたの顔が鮮明に見えた。「もうちょっと一緒にいたい」と返せば少しはあなたのことを困らせることができるのかなと思ったけれど、わたしの中の先輩としての責任感が「授業は切ったら駄目だよ」と勝手に口走っている。

わたしは多分、きみに甘えられることに弱すぎる。肩口に頭を預けられたとき、あまりの愛おしさに人目を憚らず抱き締めたくなってしまった。あなたとお付き合いできているだけで既に夢みたいなのに、昨日一歩踏み込んでしまったせいで欲が出てしまうらしい。まだ昼だから髪を崩したりしたら怒られるかなと思いつつ、我慢できずにきみの髪の毛に触れた。汗をかいたからもう駄目なんてきみは嘆いていたけれど、いつも通り柔らかで纏まっていてちょっと恨めしい。

普段は周りの目を気にするくせに、今日はベンチの上で指が絡められていて、少し嬉しかった。いつも先に指を弄り出すのはわたしで、それに呆れて手を繋いでくれるのは君な気がする。次はわたしから繋いでみたい。

今日は友人と食事に行く日だった。わたしの大切な友人に早くあなたのことを伝えてしまいたくて、ずっと落ち着かない気分だった。意外だったことは、わたしは惚気けるのが下手だということだ。友人はおどけたり揶揄ったりこそすれど、過度に踏み込むようなことはしない。そこは彼女の優しいところなんだけれど、わたしが自分から話さなければ何も伝えられないということでもあった。10円のレモンサワーは3杯や4杯飲んだくらいではまったく効果を示さず、ほとんど素面みたいな状態であなたのことをたくさん話した。「やっと大切にしてくれる人ができたんだね」と友人に言われたとき思わず少し泣きかけて、誤魔化すように酒を煽ってにへらとだらしない笑みを浮かべていた。あなたの優しすぎるところは、どうやら友人にも伝わったみたい。明日のお昼も会えるらしい。こんなに幸せでいいのかな。