そんなところまで

y9ks
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公開:2025/10/27

自分のブログがあるのにしずインをやるのは、誰でも見ても良いけれども積極的に紹介する話題じゃないようなことも描きたくなったため。日記に近い。あとは適さんの影響がある。思いつくがままに記した目的の無い文章は自由だ。それをもう一度取り戻したかった。

最近、メンタルを急に病みやすい。些細なことですべてを投げ出したくなる。でも実際に投げ出すことは無く、予定していたすべてのタスクをこなしている。多少遅れは出るもののそれで全部仕上げるところが私の良いところだ。

と書きたいところだけど実際は真逆で、それが私のだめだところだ。そうやって限界の精神耐性が少しずつ上に上がっていってしまう。

2年前くらいに精神科に通っていたときに先生が言っていた。「ゆりさんの年代だと多少無理をした方が耐性が上がるんですよ。それで仕事で実績を出していく。できる人はみんなそう。本来はいいことです」といっていた。私はそんなに働きたくないよ。と思った。けれども結果的にそうなりつつある。

貧乏揺すりが止まらないし、逆流性食道炎もかつてないくらいに激しくなって今も吐きそうになりながらこれを書いている。そこまでして書くことなのでしょうか。

昨日、YouTubeを見ていたら少女が泣いているサムネが出てきて、昨今の良くない文化の通りにサムネに全部概要が文字でかかれてあった。脳腫瘍でおそらく若くして亡くなったであろう少女は絵を描くのが好きで絵本を一冊この世に残した。本当は死にたくない。絵を描いていたかったと言っていた。眼帯をしている理由が分からないけれどもおそらく視床下部に脳腫瘍が出来て視覚に影響があるからか。視床下部の腫瘍は手術による切除が困難だとも聞いた。

その動画のサムネイルを私は二度と見たくなかった。私の心は弱い。年を取ると涙もろくなる理由は涙腺が弱くなるからだとクソガキがTwitterで言っていた。別に涙腺の制御が出来なくなるからではない。人の痛みを知るから涙もろくなる。経験が人を涙もろくさせる。それを知らないクソガキは泣かないことが良いことだと思っているからクソガキなのだと思う。

私に娘が居なかったら、私が独身だったら、ああいう動画も見れるのだろうか。痛みを知らないから。あっそー。かわいそー。カワウソー。とか言って見れるのだろうか。さすがにそんなことは無いと思うけれども。

それで見てしまったから私は、「おっちゃんが君の為に代わりに少しでも絵を描いてあげる」みたいなことを漠然と思ってしまっている。そんなことをして少女の救いになるとは思わないが何かせずには居られない。そうやってどんどん抱え込むものが増えている。

私がそういう感情になるのはやはり16歳のときに親友を亡くしたからという理由が大きいかもしれない。20代はとにかく周囲の人間が許せなかった。あいつは16歳で死んだのに。大人になって仕事をして結婚をして、そういう人生を歩みたかったはずなのに。なのに、なんでお前は大学に入って全然勉強しないんだ。なんでお前はちゃんとした大学を出てちゃんとした会社に入って、それでこんなクソみたいなドキュメントしか書けないんだ。そんなことを思っていた。その文章の末尾には「あいつはそれにチャレンジする機会すら失ってしまった」という思いがあった。要するに、若かった。私は。

ずっとそんなことを考えていたからなのか、ネームに書いたさりげない(と私が思っていた)台詞で編集の方がショックを受けていた。その台詞は主人公を批判するような内容だったが、それにご自身の経験を重ねてしまったということだった。ごめんごめん。

私はギャグ漫画のつもりで描いていたんだけど、編集の人目線では暗い話だったといわれた。そうかもしれない。精神耐性がどんどんついていったがために、私はむしろ人の気持ちを理解できなくなってきたのかもしれない。あるいは、単に経験してないからかもしれない。私には娘がいるので子供が死ぬことは悲しいことだと知っているが、そうでない人には分からないのかもしれない。経験したことがない悲しみがもっと沢山ある。

商業漫画とは作品の記号化とその演出、という話があった。そうかもしれない。初めてネームをコミティアの出張編集部に持っていったとき、「漫画というのは決められた言語がある」と怖そうな編集者は言っていた。それが漫画であるために必要なプロトコル。プロトコルというのは技術の世界でも多少の曖昧さと実装の幅を考慮している。漫画でもそれはそうで、究極的にはコマと台詞があったら漫画であるみたいなものもある。コミティアに出される漫画のプロトコルはもっとも緩いが商業漫画のプロトコルはもっとも厳格ということになる。

怖そうな編集者はそれを「言語がある」と言った後に、コマ割の隙間はこうじゃないといけない。サイレント漫画(台詞の無い漫画)は商業作品にはならない。絵が汚い。とかなんとかかんとか一通り言った後、「今言ったようなお作法を直せるなら商業でも出来るだろうし、面倒くさいな、やりたくないな、と思うのであれば同人漫画を描くのが良いでしょう」と言った。その通りだと思った。

本来、商業であればクオリティが高くて同人漫画であればクオリティが低い、と私は思っていた。それは作者の技量の話ではなくて、編集者、出版社という一定程度のクオリティを担保する仕組みがあるかないか、という違いが本質なのだと思っていた。

しかし、本質はプロトコルがゆるいか厳格か、という所にあるのだろうと思う。

だから、多分私は商業の話がたとえ上手くいったとしてもコミティアは出続けると思う。コミティアに出る漫画家も様々で、ある有名な商業漫画家のところにいったら欲しかった本が売り切れていて、「残念です」か何か言ったところ、「本屋かAmazonで買って下さい」と言われたことがあった。あ、そうですね。そうか。商業作品だからコミティアじゃなくても買えるのか。と納得したのだけど、違和感があった。

商業の単行本を並べて、コミティア用に半ぴら一枚のイラストと近況のかいた紙を置き、それで良しとする人も居る。

一方で別の方は一回商業でやったけれども納得いかなくてコミティアに出て自分を見つめ直して修行しようとした、という方もいた。私はなんとなく、こちら側のような気がする。別に商業漫画の厳格なプロトコルは悪いとは思わない。編集者もみんな以上のような話を全部分かった上で仕事をされているのだと思う。ただ、自由度が低いことは確か。そしてプロトコルがゆるいということは、読み手側には負荷がかかるということなので、自由度が高いからすべての点で優れるというわけでもない。私はそう解釈した。

私が上記のような話を全部包んで理解した上で、それでも商業にチャレンジしたいと思った理由としては、死ぬ間際になって「一応チャレンジしておけば良かったな」と後悔しそうだからだ。