ぐだ李現代パロ、死ネタ。
2018年初出、のはず。
***
エレベーターから続く長い廊下の角を曲がり、足を止めた。
珍しい顔がそこにあったからだ。
顔なじみと言ってもいい間柄の少年である。
とはいえここで顔を合わせたことはない。
住処を教えた覚えはないが、何かの拍子に口にしていたかもしれない。
なにしろ彼はそういうことをつい許してしまいたくなるのだ。
その少年はといえば、黙ってうつむいたまま口を開く気配がない。
常であれば空と同じ色彩の瞳をきらきらと輝かせて好奇心いっぱいに、先生あれはなにこれはなにと物怖じせずにまくしたててくるのだが。
「予報でも散々降るといっていただろう、それでは風邪をひくぞ」
いることを問うより先に口をついて出たのは、そんな言葉だった。
少年は頭からつま先までずぶ濡れで、傘も持っていない。
癖が強く方々にくるくるとはねる黒い髪も、濡れそぼって重みに負けている。
彼の足元に広がる水たまりは大きく広がり、沈黙もつづく。
「ほれ、茶の一つくらいは出してやるから上がっていけ」
しびれを切らし、あごで促す。
しまいこんだ鍵を取り出して表の鍵を開け、ガラガラと開く音のやたら響く柵をあけ中扉も続けて開ける。さてとばかりに振り返り、相も変わらず立ち尽くしたままの姿を見て少しばかりの苛立ちが湧いた。
「どうした、らしくないぞ」
声がいくらか強い調子を含んでしまったことに軽い後悔を覚えても何かが変わった様子もない。
ぽたり、ぽたりと少年の髪から雫の落ちる音が響き、言葉が続いた。
「ごめんなさい」
抑揚のない声に、意味を一瞬見失う。
「公園、行けなくて」
少年の言葉に内心で、ああと頷く。
小さな、約束だ。あまりに熱心にほぼ毎朝見に来ている姿が面白かったからかもしれない。
やる気があるなら稽古をつけてやってもいい、そんなことを言った。
身を乗り出し気味に食いついてきた少年は、それでも少し考えてから今朝をその初日にと、こちらの返事もろくに聞かずに決めてきたのだった。
来ればよし、来なければそれもよし、そのくらいの気持ちだった。
今までだって子供の気まぐれのように全く姿を見せない日もあったのだ。だから明日現れても不思議ではないと、そう思っていたのだが。
当人の意識はどうやら違ったらしい。
こちらが思うより深刻に約束を守れなかったことを気にしてのこの有様なのだろう。
「気にするな、儂とて降られてすぐ引き返してきたのだからな」
ことさらに、声が強くならないよう意識して口にしながら己の足元に目を落とした。
傘も持たずに出たせいで濡れてはいる。だが、さっき降り出したばかりでずぶ濡れというほどではない。
ぽたり、ぽたり、と落ちる水音に意識が向く。
そこまでの雨では、なかったはずだ。
彼は、どこにいたのか。
ゆっくりと顔を上げる。俯いた少年がそこにいるはずだった。
誰も、いなかった。
ただ、水たまりだけが広がっていた。
すべてを確認し、正直に詫びの言葉を口にする。
「すまぬな、無理を言った挙句に結局役に立てずではな」
わかってはいたのだ。少年はただ『朝、稽古に公園に行けばそこにいる子供』であって、それ以上ではなかった。
名前も、すみかも、どんな暮らしをしているのかも知らないままだった。
「いえ、多少でも手がかりがあるのは何も無いのとは大違いですよ」
少し場違いなほどにはきはきと喋る女性警官は顔立ちが幼げで、あの少年と歳がさほど変わらぬのではないかという気にさせられる。
ふたたび冷たい金属の棚にしまわれる躯にちらりと目を向けた。
少年の不可解な訪問のあった翌朝だ。
いつものように身支度をしながら聞き流していたラジオがそれを告げた。
身元不明の遺体、十代半ばかそれ以上、告げられたその服装の特徴はあのずぶ濡れの姿とぴたりと一致していた。
川から引き上げられたというそれが死後数日経っているというのが引っかかったものの、あの日の少年のうつむいたままの姿に背を押されるようにして稽古を取りやめ警察署へと足を向けた。
対応してくれたのはいくぶん小柄な女性警官とやたらと上背のある上司らしき男だった。
男は心当たりがあったとしても、大した情報があるわけではないと知った時点で興味を失ったのか、すべて女警官に押しつけるようにして姿を消した。怒気と殺気が服を着て歩いているようなその男は、状況が状況でなければ立会いを挑みたくなる程度に『使える』ようだったが、今はそういう気分にはなれなかった。
空が、消えていた。
血の気の失われたその骸からは、眼球が失われていた。
無くなっていたのはそれだけではなかったようだが、それは自分の知ったことではなかった。
きらきらと好奇心と喜びにきらめかせていたあの空色こそが、彼だった。
おざなりなやりとりと手続きを済ませ表に出る。
空回り気味だった女警官の言葉の端々から、うっすらとあの子供が何がしかの運び屋としてヘマを踏んだのだということはうかがえたが、それとてどうでもいいことに思えた。
自分にとってあの少年は、時折朝に現れる気まぐれな子供──ただ、それだけだったのだ。
朝稽古は続いている。
時折顔なじみが眠そうな顔で声をかけていくこともある。だいたいは宵っ張りでこれから眠りに向かう類の人間ではあるが、そこについては自分がどうこう言い立てることではないので黙っている。
わざわざ公園などに行かず道場を早めに開けてもいいのだが、どうせ自分一人の時間ならば外の空気を吸っていたかった。
それに、時折あるのだ。
繰り返し、繰り返し、ただ一つの型を繰り返しているその刹那。
ふと汗を拭って顔を上げたその刹那。
ちらりと、くせの強い黒髪の少年が視界の隅をかすめることが。
毎日ではないのが、いかにも彼らしく、習慣を改める気にはなれなかった。
そして朝稽古は続いている。
顔まで見えたことは、まだない。