ああああああァあああああああァ

yama3394145
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ブレンド珈琲を飲む、gyu-kakuが光る、車が走ってから雨が降る。

私は、夜のマクドナルドにいた。ハッピーセットのカービィのアゴのシャクれ具合を確認する高校生グループが眩しい。眩し過ぎて咄嗟に触ってしまった。私は自分の顎を触ってから、髭が残るチクチクとした感触を感じてすぐに手を離してから、今朝、車のエンジンが始動せず奈良旅行が中止になったことを思った。

AM8時。たいした明朝でもないけれど。

妻と娘と3人で意気揚々と黄色のカングーに乗ったまでは良かったが、あの淡い黄色のモビリティが私達を古都へと運んでいくことはなかった。キーを捻るとキュルルルキュルルルとなんとも不甲斐ない声をあげた。セルモーターは回転するものの、プラグの火花がガソリンに引火してあの特有のドクッと一瞬脈動するような初めの爆発が起こらない。

昼間の妻は終始、欲求不満という感じだった。人をダメにするクッションに藤壺のように張り付いて横になったまま、左足を規則的にぶるぶると震わせている。

私は妻のこのムーヴをみると、自分が妻を楽しませることができていないこと、妻は暇を持て余していること、このままスマホを見ながらボケっとしていることが不味いこと、自分の時間をついウッカリ過ごしすぎてしまったあの罪が頭の上から崩れ落ちてくる感覚に襲われる。

自分の都合で、自分のタイミングで他人を必要とする人間というのが(自己中心的と言えるのだろうか)存在するが、それはまさに私であった。その点、妻は常に私を必要としているから分かりやすい。(自分でそう言うのも気持ち悪いが)

今もこうして、家を飛び出してマクドナルドに来てしまったが大して生産的なこともせずに時間を浪費している。私たちはなぜ浪費してはならないのだろう。なぜ現実から逃げることはいけないことなのか。

そういうことがいくつになっても私にはわからない。

生活。自立。大人。そういう言葉が歳をとるごとにより一層現実味を帯びてくる。ただ私は成長はしたいが大人にはなりたくない。何にもなりたくない。会社員にも主夫にもプログラマにも作家にも実業家にも農家にも、この世のXというものに、何にもなりたくない。

本当に、心の底からこのように思っていることが恥ずかし過ぎて死んでしまいそうだ。死ぬことはないのだけれど。私は続く。

私という人間の本質は否定である。私は自分の周りの足場を否定して破壊することでしか、今自分の立っている場所を受け入れることができない。

本当に何もしたくない。

この間、noteで前向きな陰キャが面白いというような記事を見て、コメント欄にクソみたいな批判を饒舌に語ってしまったのだけれど、なんでそんな噛みついたのか今となっては全くわからない。老害にも程があった。

今朝、奈良に行けない代わりに「今日、弟子になります」という謎の配信活動をするプロジェクトを妻に意気揚々と語ったが、半日経った今、全く自分の考えにコミットできなくなる。

まるで、すべて他人の思考の中に入ったようだ。

学部四年間はなんとなくフラスコを振るおままごとをして、大学院では全く化学に興味がなくなり別のことをやり、それから履歴と無関係な機械メーカに就職したが結局、既に2回目の休職をしている。

何も続かない。

それでも、人生は続く。

私だけ止まっていて周りの景色、人が四季を謳歌し繰り返しながらも後ろへと流れていく。渋谷のスクランブルのど真ん中に立って人の往来を永遠に眺め続ける作業があれば私におあつらえ向きかもしれない。

dj何も続かない人が続けられる唯一のこと

上記のように、本当にひとのこと(架空の読者)を一切考えずに文章を書くとつまらないし気分を悪くさせる以外にない。読まれることはないだろうが、もし目に入れば確実に人を不快にさせる。

しずかなインターネットは、こういう文章の掃き溜めになってしまうのは心が痛むのですが、私はこれをインターネットという業火にアップロードすることで燃やして灰にしたいという欲求が抑えられないので、私はこれを投稿してしまうでしょう。弱さより。