大学院時代の研究の振り返りで引用した、グレゴリー・ベイトソン著の「精神の生態学へ」に収録されている、「プリミティブな芸術のスタイルと優美と情報」という論考は、芸術作品に触れる機会がある人、例えば音楽を聴く人や美術館によく行く人が知っておいて損はない、いやむしろ知っておくことでより豊かな体験ができる素晴らしい論考である。なので、ここではこの論考の自分なりの解釈をまとめる。この論考に関する日本語のまとめは(ほぼ)存在しないので、一定の価値があるはずだ(今週末に友人とモネ展を見に行くので、その下準備として友人向けにまとめたものでもある)。
この「精神と生態学へ」という本は、人類学者、社会学者のグレゴリー・ベイトソンという人物によって書かれた本である。彼は、一貫した思考体系に基づいてあらゆる分野の研究に顔を出す研究者であり、知の放浪者とも言われた人物だ。その彼が、そのあらゆる分野に対する様々な論考を一冊にまとめたのが、この「精神と生態学へ」という本なのだが、人類学、生物学、環境問題、サイバネティクス、そして今回する芸術論など、非常に様々な範囲の論考が収録されており、通読することでその一貫した思考体系を感じることができる。私自身は、ここで紹介する論考こそ、その思考体系がまさに存分に活きていると感じており、とても読み応えがある。
「論考のまとめを書く」と冒頭では紹介したものの、あくまでもこれは「私的な」まとめであり、論考の流れを網羅的に整理している訳でもなく、もしかするとこの論考を読んだことがある他の人から「この大事な要素が抜けてるじゃないか」という反論が来る可能性はあるが、文字通りこれは「私的な」まとめであり、自分にとって重要な部分のみを抜き出して整理しているという点はご留意いただきたい。(そもそもしずかなインターネットなのでこのような断りを入れる必要はないかもしれないが)
芸術による治癒
まずこの論考では、「優美さ」という概念を考えるところから始まる。
人間に限らず動物同士の原始的なコミュニケーションには純粋さ、素朴さが存在していて、そこには純粋さ故の「優美さ」が存在する。しかし、人間が持つ特有の意識、例えば目的偏向な思考は、このような素朴さを失わせてしまう。たとえば人間は、何かの目的のために相手を欺いたり思ってもないことを言ったりするが、そこには純粋さや素朴さが失われている。動物の中で唯一、人間が「優美ではない」生き物である。
上記の考えはオルダス・ハクスリーによるものだが、これは言い得て妙だなと思う。例えば、自分がサッカーをしている時、「なぜサッカーをしてるの?」と聞かれたら、「サッカーをしたいから」だと答えるだろうし、その時はきっと本当に純粋な気持ちなんだと思う。手段と目的が一致しているような、「自分がそれをやっている理由はそれがやりたいからである」ような状態はフロー状態をもたらす一つの条件だとも言われているが、これは確かに「優美な」状態だとも思える。
だが、年を取るにつれてこのような機会は減ってくる実感は誰しもあるだろう。上記の「欺く」例もその一つではあるが、他にも日常の多くを占める「仕事」は誰かの目的達成のためだったりする。確かに、人間特有の目的意識によってあらゆる物事が手段化されることで、「純粋さ」「優美さ」がの失われているのかもしれない。
ベイトソンは、この優美さを取り戻す一つの方法として、芸術を位置付けている。意識偏向によって失われた優美さを、意識以外の無意識の部分との統合を体感することによって取り戻す。芸術作品はまさに、意識とその真反対にある無意識の統合によってもたらさるものであり、情感と理性の統合によってもたらされるものである、というのがこの論考の趣旨である。
(以下で"意識"という単語を使う時は、「明確な意図を持つ」とか「目的を持っている」とかそういうニュアンスで使用する。)
無意識についての考察
まず、無意識についての考察から入る。フロイト的に言うと「無意識」とは幼少期からの経験が抑圧されている部分であるが、ベイトソン自身は、フロイトの説明はあくまでも無意識の一部分しか説明できてないとしており、他にも無意識の作用が存在する、と考察をしている。(ベイトソンはフロイトの考え方に対して一貫して否定的であり、ユング的な無意識や精神の考え方に非常に影響を受けているようである。)
その一つとして、「物事を深く知るにつれて、その知識を意識する度合いが少なくなること」を上げている。たとえばブラインドタッチができる人間でも、「キーボードの左上から順番にアルファベットを読み上げてみろ」と言われても読み上げることができない人は多いだろうし、絶対音感を持ってる人間がどうやってそれを判別しているのかを聞かれても、「そういうもんだから」という回答しかできないのは、その知識が意識の網に引っ掛からず、精神の奥深く、無意識の領域に沈降しているからである。
ベイトソンは「スキルなきところにアートはない」としていて、芸術に伴うスキルはこの無意識によって稼働していると述べている。多くのトレーニングを積んだ作家だからこそ、素晴らしい作品を生み出すことができる。優れたバイオリン奏者は音程通り、リズム通りに弾けるからこそ、少しテンポをずらしたり変奏をするといった、高度な表現ができる。
意識と無意識の統合
芸術家は、「自分が見たままの風景」を絵として表現している言い方をされることがあるが、ベイトソンはこれに否定的である。たとえば歪んだ風景を書いた画家がいたとして、もしその歪んだ風景が「その時、見たままの風景だった」とした場合、そのような精神状態ないし視覚能力では、見たままの風景を正確に描くためにキャンバスに絵の具を乗せることはできないだろう。
芸術家は昨日見た風景を今日書いている、あるいは何らかの方法で「普通とは違うものの見え方」を知っていて、それを無意識によるスキルを通じて、「このようなものの見え方が存在するという可能性を、他のみんなと分かち合いたい」というメッセージを発しているとも言える。ゴッホも晩年は精神を病みながら絵を多く描いていたとされていて、ゴッホの星月夜などはまさに病んでいる時に見える風景に近かったそうだが、実際に絵を描いていた時は比較的正常な状態であったとも言われてた。そして、それを表現するための無意識的な部分も持ち合わせていた(ゴッホ自身は多くの絵画を模写することによって磨いていたり、印象派や浮世絵から影響を受けていたこともあって非常に色彩豊かでタッチが独特でもあった)。つまり、意識的な作品の意図から無意識的な表現まで、精神の様々な層から多くのメッセージを発しており、それらが統合されて一つの作品を生み出す。
このような仮定の元で芸術作品を見ると、作品に対して「この作品が内包するメッセージのどの要素が、芸術家の精神(意識から無意識に至る)のどの階層と結ばれているのか」という問いを投げることができる。どの部分は芸術家が意識して意図して書いていて、どの部分は芸術家が無意識的に書いているか、を考えてみよう、ということである。
芸術作品を批評する際、「全ては意識的に、計算して作られている」あるいは逆に「全ては作家の無意識によって作られている」というような、両極端のどちらかによって批評されることがあるが、ベイトソンはそのような考え方を「単純で粗暴である」としていて、「そうやって作った作品が偉大なものになるかどうかは疑問である」としている。
ある写真家は、写真集を作る時、まずその素材集めを無意識的な部分に比重をおいて行う。演出をしないスナップ的な写真の場合は、撮影行為は決定的瞬間を捉える必要があり、それは反射的で身体性を伴うので、無意識な部分に頼ることになる。そして、撮り終わった写真を並べ、自分はその写真をなぜ取ったのか、その写真群からどんなメッセージを伝えることができるかを考え、写真集としてまとめる。当然、作家によって精神のどの部分がどの程度稼働しているかは、作家の数、ひいては作品の数ほどのパターンがあるだろう。
鑑賞を通じた精神の統合
どこまでを無意識で行い、どこまでを意識的にやっているかは鑑賞者にとってはわからない。ただそれを鑑賞する際に、「これは〇〇の作品である」という形で作品一つを一つの意味的な、目的思考的な捉え方で断定するのは、鑑賞をしている意味がないし、芸術の治癒的性質を享受できない。作品の中の一つ一つの要素、それは写真集の一つの写真でも良いし、その中の構図でも良いし、あるいは絵の中の一部やそのタッチでも良いのだが、それらをまずは即物的に捉え、その一つ一つに対して、これは無意識的にやっているのか、もし無意識だとしたらこういう捉え方もできるのではないだろうか、いやこれは明確な意図があるのではないだろうか、などと考えながら鑑賞をしていく。
このような鑑賞を通じて、私たちの精神は意識的な部分だけではなく、無意識的な部分との統合によってもたらされているという気づきを得ることができ、意識偏重によって純粋さを失った日常に、豊かさを与えてくれるのである。