貫くべきこだわりと捨てるべきこだわり

山田 唄
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 私がまだ裏若き十代の青年だった頃、当時従事していた絵の先生とそのご友人と共に、ある美大の卒展に出向いたことがある。先生とご友人は、あれこれ意見交換し合いながら(そこは酷評が多かった)それぞれの絵や立体物の前に数十秒足を止めてはそれを眺めていらしたのだが、ある絵の前で「これは説明が足りないね」と言い、その次の絵の前で「これは逆に説明しすぎ」とおっしゃった。

「説明が足りない」と言われた絵は、なるほどモチーフの輪郭などがぼんやりしており、具象画であったのに抽象的な趣があった。おそらく手数が足りなかったのだろう、絵の具を塗り重ねる際に、あまり躍起になって綿密にディテールを描写しなかったのであろうと思われる。

 一方「説明しすぎ」と言われた絵は、細部までかなりかっちり描き込まれており、私はその絵に対して「すごく熱量のある絵だな、こだわりを持って描き込まれたんだろうな」という感想を抱いたものの、先生方にとっては無駄なディテールを重ねてしまっているように見えたらしい。

 然るに「こだわり」というものには、取捨選択が必要なのだろうと思う。

 例えば、女性がリンゴを手にしている絵を描くとする。その際主役になるのはもちろん女性でありリンゴなのだが、それら主役を際立たせるべき端役(女性の衣服や背景など)まで細かく描き込んでしまうと、主役の意味がボケて全体的に過密しすぎた印象の絵になってしまう。情報量が画面全体を通して一定なので、どこを見ればいいのか迷う絵になってしまうわけだ。

 そこで、絵描きはしばしば端役の描写を省く、という手法を用いて絵の「ピント」を絞る。実際にカメラで撮った写真を思い出してもらえるとわかりやすいと思うのだが、目やカメラで写した映像において、ピントが合っている主役部分の周囲は、主役から遠ざかっていくほどにぼやける。この仕組みが結果「見る人にとって何が重要なモチーフなのか」を際立たせる効果を生んでおり、まあ要するに視線誘導の役目を負うのである。

 私はたまにこうした文章も書くのだが、文を組み立てる際にも全てを10説明していると非常に周りくどい、情報の過密しすぎた文章になってしまう。そこで、重要でない部分の描写は3くらいに留めておく。リズムを早めたい部分の地の文はさらに省き、1くらいの描写量まで削る。本当に説明したい部分の描写もだらだらと全てを書くのでなく、7〜8くらいまでに留めておく。

 こうした工夫を経て文章や絵の画面に「リズム」が生まれ、緩急が生じ、見る人にとってわかりやすい画面になるわけである。

 要は、こだわりを持って深く詰める場所は一、二箇所、多くても三箇所くらいまでにしておくのが無難だよという話である。人間は文章などを読む際、一度に覚えていられるセンテンスが三つまでである、と言われている。それを超えるセンテンスを詰め込んでも、見る人の印象には残らないし、なんだか色々言われたけれど要点がまとまってなくて洗練されていない作品だったな、という後味を残してしまう。

 捨てるべきところはバッサリ捨てる。それができるようになると絵や文章のクオリティはグッと増す。

 というトピックスを披露してみたくなったので披露しました。読んでくれた人にとって何か足しになるといいなと思います。さて、作業に戻りますかァ…。

@yamadauta
創作やりながらギリギリで生きているおじさん。ここには普段考えてはいるけれど表に出せないタイプの思想強めの文章を書いて出ししていこうと思います。