今日は作業をしながらぼんやりと、「結局イラスト含め創作って、“リビドー“が何よりも大事なんだよなあ」なんてことを考えていた。リビドー、つまり性癖である。要するに表現したいこと、伝えたいことがあるかどうかだ。
表現なんてものは鬱屈されてきた内的な発信欲求の発露であり、普段言いたいけれども言えない由無し事を、キャラクターに代弁させたり地の文に紛れ込ませたりして、とにかく声を大にして叫びたい、という思いの行き着く先なのである。結果、普段から思いを溜め込んでいる人が強い分野であると言える。
昨今の芸術、芸能の中心地であるアメリカがなぜここまで強いのかと言えば、彼の国では「自由」、翻って表現の自由、というものが非常に尊重されてきたきらいがあるからであろう。誰が何を言っても良いという風土を意図的に築き上げてきたのである。
結果としてあの国の人々は、非常にのびのびと生きたいように生きている。故に彼らの生み出す表現は、どれもこれも「外向き」になり、彼らの生き生きとした自由、表現したいから表現するんだ!!! という自然な、息をするかの如く表現欲求を悠々と発露させている。
では、表現が規制されてきた国の人々は大人しくその重圧に従っているかと言えばそうでもない。日本でも戦時中の情報統制化において、体制批判や軍部批判の表現がひたすら生み出され続けた。彼らは自分が命を落とすことになろうとも表現することをやめられなかったし、すなわち「自由というものに対する渇望」こそが味の濃い表現を生む。
日本というある意味で抑圧された環境下において、これだけのリビドーを内包した「オタク文化」という表現の一形態が生まれたのも、まあ無理もない話だったのだろう。
人間はそもそも「かくあるべき」「よく生きるべき」みたいな「型」にはめられて、五体を縛られて生きることに従順になれる生き物ではないのである。かくあれと言われればその言葉に反抗したくなるし、これが良い生き方だと示されればよくない生き方を試してみたくなる。そうした一々のリビドー、制御されんとしてどうしても抑え切れなかった欲求が、今表現という一つの答えに向けて、一気に膨らみビッグバンを起こそうとしている。
結果、世の中に未だかつてないほどの表現が溢れかえる、大発信時代に差し掛かっているのである。
で、まあ自分の周囲(つまりSNSなどで繋がっているふぉろわっさんたち)に目を向けても、リビドーに従っている人は一様に強い。「これを表現したい!!!」「こういうものが好き!!!」というものが明確にある人たちが人気を集めているなと客観的に思う。
では自分はどうかといえば、私自身にはさほどリビドーや表現欲求がないのが事実だ。幼い頃から割と放任され、自由に色々やらせてもらっていたし、親からではないものの愛情も十分に注がれ、過不足なくいろんな経験を経てきた。結果として特殊な性癖みたいなものは私の場合ほぼ生じ得なかったし、非常に健全な、表現者としては「つまらない」感性を手にした。
一時期こそ描いても描いても評価されず、その鬱屈をバネに表現欲求を逞しくしていたが、その頃のドロドロとした熱も概ね消え去り、私の中にはただ満足してチロチロと残り火を揺らめかせる脆弱な魂だけが残った。
思うに、私の表現にはまだ血が通っていない。そもそも「可愛い女の子描いとけばそれなりに評価されるだろうから」という思いで女の子イラストを描き続けていて、本来的に私には、美少女イラストに対する飢えや渇きがあるわけではないのだ。メカは好きで描いているけれども、それにしたって「こういうものに憧れているのが男の子っぽいんでしょう」みたいな計算された振る舞いでしかない。
私はこれから、自分が本当に表現したいものと向き合い、それを形にしていくという作業をどうしてもやらねばならんのだろうと思う。最近表現欲求が減退しているように思えるのは、ただただある程度評価されるようになったために「評価が欲しい」という思いだけでは描けなくなってきたことに起因しているのだと思う。
自分のリビドーを育てたい。そこからが私の本当の表現活動であろうと思う。頑張っていきたいですね。