後悔が無数にある、だから私は私が嫌い

山田 唄
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 去年くらいからnoteで見ている人に、非常に自己愛に溢れた人がいる。人の話を聞かないし、独善的だし、身勝手。しかもそう言う自分が好きだときている。正直見ているとイライラするのだが、なぜこうも不完全な人間が欠けているところばかりの自分を愛せるのだろうか、と言う点には興味があり、ずっと観測し続けている。

 見れば見るほど不思議な生き物である。昨日「私はAだと思う!! だからBの人が嫌い!!!」みたいなことを言ったかと思えば、その次の日には「Aの人が信じられない!! Bこそ正しい価値観!!!」みたいなことを平気で言う。しかも一貫性がないことに自分で気づいていない。その時々のノリだけで記事を書いており、そもそも自分を省みると言うことをしない人なのであろう。

 つまりは、「過去に対する後悔」と言うものを持たない人なのである。過去を反省材料として観測していないのだから当たり前だ。その人にとって過去とはひたすら輝かしい自分の足跡であり、何せ大好きな自分が成したことであるから全てを肯定しているのである。なるほど、無敵の人だ。

 翻って私は、常日頃から過去自分がしでかしたことについて、ただただ後悔を重ねている。なんなら何十年も前の未熟な自分がやらかした失敗を、いまだにほじくり返して悶えている。

 なので自分を頭から足先まで全て肯定したことが一度もなく、まあそう言うメンタリティの人間が自分を全肯定している人間を見ると、そりゃあモヤモヤするわけだ。自分とは百八十度違う、自信に溢れた人を見ているわけだからかの人に自分にないものを見つけて羨ましがっている。そう言うことである。

 私は、私のことが嫌いだ。欠点を挙げればキリがないし、過去様々な人を踏みにじってきて、しかもその贖罪をきっちり果たしているとも言えない。いまだに家族や他人の加護の中で何不自由なくぬくぬくと生きており、下されるべき罰が下っていないと考えている。

 なので、自分で自分を嫌うことで罰し続けている。少しでもいい人間になろうと画策していることですら、そうだ。このままでは自分が過去傷付けてきた人たちに顔向ができないから少しでもマシな人間になりたいのである。

 私と冒頭で挙げた人、どちらがまともな人間かと言うのは簡単には言えぬところであろう。どちらもろくでもないと言える。

 まあでも、それがわかったので私も多少気が済んだ。その人のフォローは外しておこうと思う。(元々フォローバックはされていない。私が一方的に気になって見続けていた人だ)

 結局、人間など善か悪かでは割り切れないものなのだろう。周りの人間が迷惑していればそれは悪、と言えるかもしれないが、周囲の人間全てを慮った行動をとれる人間などいない。人一人の裁量でそこまで広域をカバーし続けるのは不可能であろう。人間は皆誰かに迷惑をかけながら生きている。

 つまりは、かの人のように自分を全肯定している人の方が「おトク」だと言える。少なくとも楽しく生きていける。どうあっても他人に迷惑をかけるのであれば、せめて本人くらいは楽しく生きられたほうがずっといい。

 それでも私はあの人のようにはなりたくないと思うし、まあ合理的な理由はなく私はあの人のことが好きになれない。

 だから、この道は交わらずに平行線のまま、宇宙の果てまで続いていくのだと思う。それでいい。私は他人というものを少しでも知ることで自分を知る材料にしたいだけだ。

 さよなら、見も知らぬ他人よ。私の知らぬところで幸せに生きてくれ。

@yamadauta
創作やりながらギリギリで生きているおじさん。ここには普段考えてはいるけれど表に出せないタイプの思想強めの文章を書いて出ししていこうと思います。