かねてよりあちこちで書いてきたが、私は自己肯定感が非常に強い。加えて自己愛(自己肯定感に比べてネガティブな言葉という意識で使っている)も大変強く、まあ平易な言葉で言うならば自分に自信がある。自惚が強い、とも言う。
要するに自分が大好きなのである。他人が理解できず苦しんだ少年期、孤独に苛まれた青年期を経て、蝶が芋虫、蛹の時期を経て羽化するように、大きく華開いたのがこの万能感に常に酔いしれる尊大な自分であった。蝶というよりは体感「蛾」という意識であるが、まあそこは些細なことだ。蝶も蛾もより巨大な存在から見れば四つの羽でパタパタ舞う蒙昧な命でしかない。
で、まあ「自分」というものに絶対の自信があることに加えて、「自分が生み出すもの」つまり創作物に対しても自信というか確信を持っている。自分はいいものを生み出している、自分の作っているこれは素晴らしいものだ、という確信である。
その確信があるがために、いささか身の丈に合わない評価を自分に下しているきらいがある。明らかに自分を過大評価している。謙虚さのカケラもないのがそもそもの私であり、自信に溢れた態度で周りをぐいぐい巻き込んでいくので、それを面白がってくれる人と、何だこいつ、大した力もないくせに威張り散らしやがって、と感じる人とで私の評価は綺麗に二分されてきた。
後者の人々の中には私になんとしても屈辱を味わわせてやりたい、という感情に駆られる人が珍しくない。そういう人に昔からあれこれ言われてきて、それが煩わしかったので努めて自己肯定感が低いふりを取り繕うようになったが、まあしかし自分の本質は楽天的な自信家であるので、結局そのように振る舞っている時が一番調子が良い。
最近では自分の自信に見合うだけの実力と評価がようやく伴い始めているので、周囲の当たりも柔らかくなってきた体感がある。
結局この歳になるまで周囲の評価にさほど左右されず、ひたすらに牙を研ぎ続けることができたのはこの自己肯定感ゆえであると思っている。「自分は必ず大したヤツになる」という確信があるから、弛まず努力を継続することができているのである。周囲からの評価が思わしくない時期にも挫けず淡々と創作を続けてきた。
苦しかったは苦しかったものの、「俺の凄さを周りにも認めさせてやるんだ!!!」という意気込みで邁進してきたこの十数年間は楽しかったな、と振り返って思う。
何が言いたいかというと、平易に自分を下げる必要は全然ないぞ、ということだ。「俺は誰よりもすごいんだ!!!」という自己肯定感を保ちたいならば、実際に誰よりもすごい俺になってしまえばいいのである。そのほうが前むきに生きていけるし、結果なし得ることも大きくなるだろう。
その過程で幾許か失うものもあるかもしれない。しかし、自分を下げて挑戦することすらしなければ、失うものがない代わりに得るものもない。俺はこのくらいが分相応だから、という思考は、自分の可能性を閉じる。
どんどん欲張ればいいと思うのだ。そういう人の周りには同じように欲張って努力し続ける人が寄ってきて非常に意欲的な流れができる。
人生、下を向いて生きるか上を向いて生きるかは自分次第なのである。あなたは、どうする。