最近noteで「この人面白そうだな」と思ってフォローした方が、頻繁に「私は弱者女性なので女性がひどい扱いを受ける世間の荒波をこういうふうに乗りこなしています」みたいな記事を書かれているんだけど、あまりにも似たようなことを繰り返し書かれるので読んでいて若干疲弊してきた。その方自身が「弱者女性」という自らの立場をいわば売りにしていて、そこからのポジショントーク?というやつで気持ちよくなっちゃってるのが窺える。
まあ、読みたくない記事は読まなければいいだけの話で、フォローを外して忘れれば万事解決なのだが、向こうからもフォローバックされてしまってウワーーーッの気持ちになっている。フォローやフォローバックにもうちょっと慎重になったほうがいいのかもしれない。この人面白えな、って思ったら軽率にお近づきになろうとしてしまうんですけど。
最近、ネットの特にSNS・ブログ界隈を見ていると、彼女と同じように「弱者女性」という立場を最大限利用して注目を集めている人が目立つようになってきたな、という体感がある。弱者女性以外にも、「弱者男性」「スピリチュアル系」「ニート」「ADHD」「メンヘラ」などなど、自らを箱詰めしてそれらのラベルを貼り、ラベルに相応しい振る舞いを繰り返して集客する、みたいな活動の仕方が流行っているなと。
そうした振る舞いを重ねる人たちを見ていると正直モヤモヤしてくる。どうも、彼らは「自らが」感じたこと、思ったこと、考えていることなどを発信しているというよりは、自分はこういう立場の人間です! だからこういうことを考えているのが相応しいんでしょう! ほら、わかりやすいコンテンツですね! みたいな、「共感を得てそれを集客に繋げる」前提の発言の仕方、ひいては生き方を延々続けているように見えてしまうのだ。
そりゃあ人間社会に生きる上で、何の立場も付与されない人などもはやいないだろう。ラベリングのためのあらゆる言葉が生まれては淘汰される近代〜現代で、「何者でもない」自分でいられる人間はごく僅かである。
しかし、貼られたラベルに相応しい振る舞いだけをよしとして、ただただ機械的に「売れる」発信を繰り返している彼らからは、どうもミームの奴隷ともいうべき不自由さを感じる。彼らにとって、最も大事なのは他者から共感されることであり、つまりは共感に値しない思想や知識は全く価値がないと考え、自ら切り捨てたり胸の奥深くに沈めたりしているのが透けて見える。
結局、彼らの言葉は彼らの生の感性から生まれた言葉ではなく、役割に準じるために虚空から生み出された空っぽの言葉に見えるのである。
まあそうは言っても私も、ある程度自らにラベリングを施しそのクラスをロールして生きている。あまりにも自由奔放な振る舞いを繰り返しても、言動に一貫性がなくなり人はついてこなくなるのだろうし、最終これもバランスではないかと思いますね。ほどほどに自らに枷をはめ、ほどほどの不自由の中生きていくのが健全なのだと思う。
自分の心から信じた言葉で語るのは怖いですしね。その言葉を否定されることは自らの人格を否定されることと同義ですし。
人間、難しくてめんどくさいねえ…。