私が思う「美意識」とは、その人の行動の指針となる矜持、ポリシーの如きものだ。俺はこう言う時にはこういう行為を働くのが美しいと思っている、だからどんなに違う選択を迫られようとも、その時はそうする。斯様な一本の背骨、自分の中に括った旗印こそが美意識だと思う。
これがしっかりしている創作家の作るものには、全般的に気品が漂う。例えばわけのわからないサービスシーンは描かない、俺はストーリーの面白さだけで勝負する、という美意識を持った漫画家の描く漫画は、美しく気高い。逆に、俺はサービスシーンを描くことに命を賭けている、俺の漫画の見どころはサービスシーンなので、そこの描写には手を抜かない、と言う漫画家の描くサービスシーンにも、エロではあれ気品が伴うものだ。
最終、それら意地を張り通した気品や美しさこそが作品全体の雰囲気を形作るといっても過言ではなく、逆にいえばポリシーのない作家の作る作品は、どのような媒体であれ美しくないし、下品に見えるものである。
創作物、と言うものからは、作者の考えや物事に対する姿勢がかなり克明に読み取れてしまう。例えば私は女の子の脚を描くのが好きで、毎回丹念にアウトラインをとって美脚を描けるよう心がけているが、その美意識が一定以上のところに達するようになってからは「山田さんって脚フェチですよね」みたいなことをちょいちょい言われるようになった。
逆に、あまり丹念に描いてこなかった人物の表情や顔貌などは、昔から「弱い、弱い」と言われ続けており、まあ私自身に人間の相貌に対する興味や理解がほとんどなかったわけである。最近になってそれではいけないなと思いなおして人間研究を重ね、ある程度生き生きとした表情が描けるようになったが、斯様に人間の作るものには、その人の主義、思考、趣向やなんかがほとんど丸ごと現れている。
故に、作りたくもないものを嫌々作り続けている創作家の作品からは、その嫌味が非常に強く感じられてしまう。受け手には全てバレているのである。
私も昔、女の子のエッチな描写を増やすよう勧められて嫌々胸を盛ったり露出を増やしていたことがあったが、結局それらはほとんど評価されなかった。私の美意識に反する表現であったために、ひとえにそれら描写がエグ味となって見えていたのである。
作家は己の美意識を大切にすべきだと思う。やりたくない表現、見たくもない描写を重ねることで、その作家の品格は瞬く間に低下する。SNSなどで思ってもいない発言を繰り返すのもできればやめた方が良い。嘘で固められた綺麗事は、見る人にも大抵それとわかってしまうからである。
人間、多少乱暴なタチの相手であろうと自分に正直に生きている人が見たいものじゃあないですか。特にネット上では、自分の趣向に近い人間探しが捗る。そのような場において自分を取り繕って無理やり上品ぶって振る舞っても、そのような自分が好きな人が集まってくるので引き続き、延々無理を重ねることになる。そうなるくらいであれば最初から美意識に正直に生きた方が良い。自分も含め、傷つく人間を減らせる。
自分にとって本当に譲れないものは絶対に譲ってはいけない、と言う話であった。多少頑固な人間の方が魅力的に見えるものですよ。