ネットをやっていると、「こいつのことが嫌い」「あいつのことが腹たつ」みたいな発言を度々目にする。実際私もそういう発言をぽろっとこぼしてしまう、というかこぼさなければイライラしてどうしようもない局面に立たされることはよくあるし、愚痴るくらいで気持ちが晴れるのであればいくらでも愚痴れば良いと思う。
しかし、どうだろう。私たちがいかに誰かのことを嫌ったところで、互いにとってなんのプラスもない気がするのである。
私たちに嫌われる相手にとってもそうなのだが、彼らを嫌いだ、腹が立つ、もう見たくもない、と思ってしまう私たちも実はものすごいマイナス要因を抱えてしまっている。基本的に人間はネガティブな話を聞きたくないので、他人の粗探しばかりしている人間の周りにはいつか同じように粗探しばかりする人間しか寄り付かなくなるし、私たち自身にしたってこの人が嫌い…嫌い…と考え続けることでマイナスな感情に精神を支配されてしまい、体力精神力その他をガリガリ消耗する。
誰かに対するマイナス感情に支配されて過ごす時間は、率直に無駄である。考え続けて何かが解決するならばそれは望ましいかもしれないが、世界というものは自分を中心に成っているわけではない。私たちがいくら一人で頭を痛めたところで解決する問題は非常に少ないので、嫌なことがあったら何か気晴らしでもしてパーっと忘れてしまった方がいいのである。
で、もう一つ考えなければいけないことがあって、それは私たちも誰かに嫌われることがある、という単純な事実だ。
どんなに気をつけて生活していてもどこかで誰かの気に触ることは日常的にある。特にネットなんてしていると、異なる生活圏、文化圏、違うナワバリやコミュニティに属している人間たちと日常的に遭遇するので、誰かに嫌われる割合自体がグッと増す。
わかるだろうか、この虚しさが。私たちが普段「誰それのことが嫌いだ」「誰それに嫌われてしまった」と感じてぐるぐる悩むことに、ほぼほぼ意味はないのである。
それは単なる「日常」以上のものではなく、生きている限り無限にぐるぐる繰り返す些事である。大体にして、万人ウケする人間がこの世にいるわけがないだろう。完璧な性格と容姿と技能を兼ね備えた超人!!!! みたいな人間が仮にいるとしても、「完璧な人間が嫌い」というニッチな需要が確実に存在する。そんなことが万事が万事なので、嫌うことにも嫌われることにも、囚われる必然性は全くないのだ。
誰かに対する怒りでぐるぐる身を焦がして、四六時中怒りをぶつける相手を探している人をネットでよく見かける。しかし、そんなことをアイデンティティにしてしまって、誰が得をするだろうか。その人自身にも何の得もないと思う。
であれば、もっと楽しいことを日常的に考えて、穏やかな気持ちで自分という器を満たしていた方がずっといい。
「怒り」を捨てろとは言わないが、早めに忘れた方がいい。そんなもの何の生産性も生み出さないのだから。