ミスキーではすでに大騒ぎしているが、今朝依頼を受けて作成した記事に対し、ギフト券という形でお礼を頂いた。
元々「有償でもいいのでぜひ」と言ってくださった先方に対し、「いや、こっちも好きでやってるし楽しいんで、無償でいいっすよ」と内心の恐れをひた隠しにしながら応じた、という経緯があったのだが、作成した記事を見て依頼者さんが大層感激してくださって、「普段からお世話になっているし、その分も合わせて…」みたいなお言葉と共に先のギフト券を送ってくださったのだ。
ちなみにギフト券は電子のもので、添付されたURLに飛ぶとずらっと並ぶ商品のラインナップから金額分のものと引き換えられる、というシステムになっていた。すげえ。俺が引きこもってる間に世間はめちゃくちゃ進化している。(インターネット老人会。
それはそれとして、私の中で今回の依頼を無償で受けたのは、まあ先方にも言ったように「好きでやってることだから」という理由の他にも、いくつかわけがある。
まず、私は自分の創作に値段がつくことに耐えられる人間ではなかった。元々、どの会社に入ってもちっとも戦力になれず、社会に馴染めない自分を思い知ったので苦肉の策として商業イラストレーターの道を志したわけだが、コミッションを幾らか受けてみた感じで「こいつぁ辛え」となったのである。
対価を頂くということは、当然制作に責任が発生する。締切を破ったり、まして「製作が辛くなって仕上がりませんでした」なんてことになれば、一気に信用を失う。そして、私は過去その過ちを実際に犯している。
その感じで自分には商業創作家の道は無いなと理解したし、まあ加えて自分の作ったものに値段がつくと、なんやらSNSでの評価以上に、自分の価値が可視化された気がしてしまう。これが窮屈でならなかった。
そしてもう一つ有償でやることを渋る理由があって、特に今回の場合、私は依頼者さんに対する好意からこの依頼を引き受けたわけである。好意というのはいつも懇意にしてくれているし、世話にもなっているから幾らかでもそのお返しをしたい、という感情だ。
その感情に値段がつく、というのがまた窮屈な気がしてしまう。善意に対して善意が返ってくるのはまあ構わないというかむしろ望むところなのだが、善意に金品で返されるとまるでその金品を得るために善意を施したという風に話がすり替えられてしまう気がする。
まあ今回に限って言えば、依頼者さんが「普段からお世話になっているし」という言葉を添えてくださったことから「ああ、好意に対する好意としてギフト券という形を選んでくださったんだな」と納得したが。
そういう諸々の事情があって、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけぐらっときた。制作に対して対価が生じたという嬉しさももちろんあるのだが、これからもこんな感じでやっていくのか、ということに対する不安がデカい。
特に、今回は付き合いの長い知人が相手であったからそこまでの緊張も動揺もなかったけれど、これが会話もろくにしたことのないような相手で、そういう人から依頼を受けて文章やイラストを制作すると、当然「気に入ってもらえるかな」「酷評されたらどうしよう」「こんなものに金が払えるか、と怒りを買うかもしれない」という不安が常にある。
まあ、そんなこんなで、いずれは私もコミッションを受けるツテを開設しようと思ってはいるが、まだ心の準備ができていないなと、そのような結論を出したのであった。
ゲッ、もう千五百字くらい書いてるじゃん…。めんどくせえやつですみません。ギフト券をいただいたことはすごくすごく嬉しかったよ!!! 全ては俺の自信のなさが悪い。