好意という感情の全てが「恋愛感情」に該当するものだとは思わない。好意には様々な形がある。友情、家族愛、敬愛、隣人愛…。それら数多ある好意の中の一つに恋愛感情が数えられるという話でしかないと思っている。
私は常日頃、様々な人・物・事にクソデカ感情を抱いている。割と軽率に人に惚れるし、守りたい、幸せにしたい、という巨大な好意を度々色んな人に向ける。最近までそれらは全て恋愛感情なのだと思っていた。しかし、少し違うのかもしれない。
私が他人に向ける好意のほとんどは、敬愛に分類されるものなのかもしれないと最近思うのだった。
相手と恋人として付き合いたい、恋人という間柄でしか許されない行為に及びたい、という気持ちもなくはない。相手と恋人として振る舞う妄想をして自分を満足させてやることもたまにある。しかしそれ以上に私がやりたいことは、相手と会話や気遣いによって関係を育み、相手を幸せに導き、その上で自らも彼ら、彼女らの隣で幸福になることだ。
きっと、これは恋愛感情ではないのだろう。思うに、私は「恋愛」「恋人同士」というキーワードに、この歳になってもぼんやりとした憧れを抱いている。相手を唯一無二のものとして一生添い遂げる。そういう関係を育むならばやはり、恋人という関係性を選ぶのが手っ取り早い。
ただ、恋人という契約を結ぶ限りは、いずれ恋人でなくなる時が来る。恋愛感情を持って付き合うからには、ゴールは別れるか結婚するかの二択だ。
私も以前一度だけ恋人と言える関係を持ったことがあるが、特に喧嘩した時などが最悪で、些細なすれ違いから何度か衝突を繰り返すうちに相手のことが好きだという気持ちが変質していく感覚があった。あれは非常に辛い。確かに相手のことが好きだと思って付き合い始めたのに、その自分の気持ちに確証が持てなくなっていくのである。
次第に好きという気持ちよりも嫌い、苦手、腹が立つ、と言った気持ちが大きくなっていき、そうして私たちは互いに相手のことが愛せなくなり、別れるに至った。あの時使ったエネルギーの大きさを考えると、もうこれ以上似たようなことを繰り返そうという気持ちにはなかなかならない。
よしんば結婚まで漕ぎ着けたとして、次に待っているのは生活のすり合わせや家事の分担、育児、と言った相手に対する好意とはまた別の部分での軋轢であり、そういうことを考えると俄かにうんざりする自分がいる。そういう諸々を抜きにしても、私は恋愛や結婚といった、真っ当な人々が営む関係構築に向いていないのだろうなと、このところよくよく思い知っている。
色々とぐだぐだ述べてきたが、まあ要するにまた恋愛からの失恋を繰り返すのがしんどいので、これ以上誰かを恋愛という意味で好きになろうとは思わないし、そもそも私が相手に向ける好意は無差別な敬愛だ、という話だ。だから私に好意を向けられているからといって、それに応える義務は相手にはないし、好きな時に好きなように相手をしてくれればいいし、面倒くさいと思ったら無期限で放置してくれて構わない。
私はクソデカ感情をあなた達に向け続けるが、同等の感情を返してくれなくてもいい。勝手に愛して、勝手に愛される。そういう関係性が望ましいなと思うのだ。
これを「愛」と呼んでいいのかはわからないけれど。