もう十年以上前のことになるが、ある時お邪魔した当時繋がりのあったイラストレーターさんのグループ展で、俺がスケッチブックいっぱいに描き殴った絵を見て持ったことがある。
今思えば随分思い切ったことをしたなと思う。当時の俺は今にもまして社会性が死んでいたので、そうした場でどこまで遠慮してどれくらい自我を出せばいいかという塩梅がさっぱりわかっていなかった。で、そうして見てもらった大量のアナログイラストに対して、その方がまずおっしゃったのが、「こんなにたくさんの絵を一度に見たのに疲れなかったのは初めてだ」ということだった。
この一件は自分の中に楔として割と長いこと突き刺さっており、その方が言葉を選んで、オブラートに包んだ言い方をしてくださっただけで、実際には「無味乾燥」な、見ていて何の毒にも薬にもならない表現だ、と言われたのだという事実が当時の俺にもどうなり理解できた。
で、まあその評価を覆したくてとにかくしゃにむに描き続けたわけである。
こちらには度々書いてきたように、その頃の俺には欲や感情に類するものがほんの微弱にしか存在せず、故に「描きたいモチーフ」「表現したい概念」みたいなものも持ち得ていなかった。そういうものを組み立てるところから始めざるを得なかったわけだ。
そうやって暗中模索するうちに、どうなり「近未来の」「有機的なメカを纏った」「可愛らしい少女」という方向性が確立されていったわけだが、それでも自分の作るものには、"俺にはこれしかない!!!!"という勢いで他者が生み出す作品に滲み出るような、強烈な味がずっと伴わなかった。
当たり前かもしれない。モチーフから先にどうにか決めたところで、それを描きたいという心からの衝動が存在しなければ、その作品は空虚なものにしかならないであろう。
そんなわけで俺の作るものは、技術としては一定のレベルを超えているもののいまだにほとんどの人間に見向きもされない。ここらが限界かな、と最近は割と諦めている。
しかしここから光明を見出せないこともない。現状のネット社会、SNS社会において、味の濃いイラストがもはや億や兆を超える数溢れ返り、現状の創作分野は可処分時間の奪い合い、と言われるようになった。創作物を見る時間も体力も有限なので、それらを上手いこと配分して少しでも多くの作品に触れる。そういう「義務感から創作を履修する」世の中になりつつあるということだ。
そのような時代において、創作に味がしないというのは一つの強みではないか。いわば箸休め的な意味合いで、メインディッシュを突く傍らちょいちょい箸を伸ばしてつまむような、そういう付け合わせ的なポジションを狙えるのが俺の創作であると言えると思うのである。
味の濃い料理を食べ続けていたら、当然少し味の薄い料理で口直ししたくなる。独特の歯触りの料理だけでは飽きるので、冷奴のような歯応えのない料理にも需要が生まれる。香の強い料理の後には優しい風味の惣菜に触れたくなる。
もちろんメインディッシュにはなり得ないので、数万フォロワーを獲得するような巨大アカウントに手を伸ばすのはハナから諦めねばならない。むしろ、数万フォロワーアカウントをフォローするときにもののついででフォローするような、そういう"隙間"のポジションを狙っていくのが自分のすべき戦い方ではないか。
あえて「抱き合わせ」商法を用いて、副菜の方に自分を据えるような。それが俺のすべきニッチな戦法なのだと思う。
俺の作品はいくら数を積んでも人を疲れさせることがない。それをマイナスでなく、プラスに捉えることがこれから自分が取るべき一手なのだろう。そのための方策をどうにか講じていきたいという思いだ。
頑張っていきたいですね。