敬愛するにゃるらさんが下のような記事を書かれていた。
内容を掻い摘むと、「自分は創作をやっていなければ誰にも相手をしてもらえない人間である」「だから創作をやり続けるしかない」「創作などの行為に携わらずとも一般社会に馴染める人間がたくさんいて、彼らが羨ましい」という。わかるオブわかる、の気持ちになった。
私もかつて、創作しか寄るべのない人間であった。人間というものが長らく理解できず、どこの集団に混じろうとしても人の気持ちが理解できなくて浮いてしまい、かといって一人は寂しいのでなんとか人と交わる手段を、と考えてたどり着いたのが「創作」であった。
創作というフィールドでは、受け手が最初から「この人はどんな思想や価値観を持っているんだろう」という理解・歩み寄りの精神を持って接してくれるので、最初から一般人として人と関わるより遥に相手に受け入れてもらいやすいのである。その上で変わった価値観や人生を持ち得ている人間の方が特殊性の高いものを産めるので、そのような経験が重宝されるわけだ。
故に、私にとって創作という界隈は非常に居心地の良い場所であった。そこで出会う人たちも多かれ少なかれ一般並の現実に馴染めずに困窮し、その果てに創作にたどり着いた人たちであったから、そのような彼らとは大変馬が合ったし、変人同士である彼らと寄り添うことで私はぎりぎり孤独の果てに死ぬという決断を選ばずに済んでいた。
まあそれでも、そこで得られる承認はあくまでも仮初のものである。そもそも「作っていないと」評価が得られない。つまりは全幅の信頼であったり無償の愛という類の承認ではなく、「あなたが面白いものを作り続けているから私はあなたを応援しますよ」という条件付きの承認であるのだ。
このような承認では、結局我々の腹は膨れないのである。我々が本当に欲しているのは、ただ存在を肯定される、無条件で受け入れてもらえる。そういう隣人愛、あるいは親子愛。つまりキリストの言うアガペーであるからだ。
私自身、この理屈がわかっておらず長いこととにかく絵を生み出しては愛してもらおうとしたが、結局心の隙間は埋まらなかった。当たり前である。周囲の人たちが愛してくれているのは私の「作品」であり、「私自身」ではない。
しかしてこの数年、一気に状況が変わったのであった。私が周囲の人々を愛する術を身につけたのである。
今までとにかく相手から愛を引き出そうと創作というズレた努力を重ねてきたが、実態はもっと単純であった。愛に対しては基本、愛が返ってくる。私が相手を愛しさえすれば、私も愛してもらえるのだ。
結果として私は人様からの愛を獲得するに至り、その末に創作を必要としなくなってしまった。そう、私にはもう、「作る理由」がない。私が作らなくても、私の周りには愛を注いでくれる人たちがいるからだ。
正直、途方に暮れている。これから先私は何をやって生きれば良いのだろう。他人に見てもらうためにとにかく全てを創作にぶっ込み、狂ったように作り続けていたあの頃が、もはや遠い過去のように思える。実際はごく最近までそうであったのだが。
私は幸せになってしまった。当時のような勢いではもう作れない。
「創作をやらなければいけない理由」を、新たに見出さなければいけない。でも、本当にそんなことを必要としているのでしょうか。私はもう欲しいものを手にしているのに。
あの頃の私が暗い眼差しで今の私を見ている。「お前も結局その程度の人間であったか」という眼差し。その彼の幻影も間も無く消えるのだろう。私は、このまま幸せになって良いのでしょうか。