今朝、Xとnoteの方で繋がってくださっているふぉろわっさんが、「山田さん最近色々あるみたいだけど、疲れで抵抗力が下がってるんだと思う、心配」みたいな記事を書いてくださった。実際のところさほど疲弊している自覚はなかったのだが、その記事を読んで「ああ、疲れてるのか自分」と思ったらなんだかいきなり力が抜けて、どっと疲れが押し寄せてきた。
このところ、やけに頑張れなくなっているなと思う。いや、言葉のマイナスさに比して、それはいいことなのだ。私が限界を超えて頑張ろうとするたびに、都度ネットやリアルの知己たちが「だいぶ辛そうだからそろそろ休めよ」と釘を刺してくれるようになった。だから限界を迎えてなお疲労を無いモノとしてひたすら頑張り続ける、みたいなことが大幅に減った。
ずいぶん優しい世界に突入してしまったな、と思う。
何年か前まで私のそばにいた人たちは、私が疲弊し続けながらひたすら努力を続けることをよしとする人たちだった。連続で華々しい成果を上げ続けなければ褒められることすらなかったし、私がちょっと弱音を吐くと「俺たちはお前の百倍頑張ってる、お前のそれは甘えだ」みたいなことを平然と言ってくる。
結果としてほとんど休むこともなく、二十年近くボロッボロになるまで努力を続けた。当初楽しくて描き始めた絵もすっかり義務感と閉塞感を感じながら嫌だ嫌だと思いながらで描き続けるモノとなり、それでも「絵描くの、辛い」なんてこぼした日には数人からやんやとお叱りの言葉をいただく。
気が狂いそうだった。いや、実際にもう狂っているのかもしれない。そんな生活をしばらく続けた結果、私には私が本当に何を望んでいるのか、何を欲してそのような凶行に挑み続けているのかもわからなくなっていった。
そうした環境が、この数年で劇的に変化した。私が頑張るたびに「いいね! でも無理しないでね!」という言葉を当たり前のようにかけてくれる人たちと出会った。私がたまにいい絵を描くと、それも当然のように褒めてくれる。中には毎回のように絵に感想をつけてくれる人もいて、彼らの存在が私の中で大きく膨らんでいった。
しかし、私にはなぜ彼らが私にそこまでしてくれるのかがわからないでいた。いや、本当はわかっているし、それはひどくシンプルなことなのだろう。彼らは私を愛してくれているのだ。
ただ私には、この何十年かの人生の中で、他人に愛された経験というものが決定的に欠如しており、彼らの愛を実感できない上で自分が他人に愛される器であると思えない。
彼らは私からなんらかのリターンを得られるから私に優しくしてくれるのだ、と、そういう結論を持ち続けていた方が気が楽だった。私もそのように彼らと向き合えばいいということだから。
それでも、最近はこのままではいけないんだろうなと思い始めている。私も彼らに対して愛を捧げたい気持ちになり始めている。愛と愛を交換し合うやり取りができたとしたら、それはすごく幸福なことではないだろうか。
でも、「俺はこの人に愛されている」という思いが、裏切られる瞬間が怖い。今まで愛なんて望みもしなかったし、望んではいけないと思って生きてきたから、人間関係で本当に傷つくことなどなかった。いつも面の皮の前で留めて、適当に流して生きてきた。
愛を獲得してしまったら、もう言い訳ができなくなる。
その瞬間が呪わしいような、それでも求めてやまないような。その思いすら甘がゆい。