十代の頃師事していた絵の先生が、当時私の描いたものを見てポツリと「“見ない“ってことは他人の絵と被らないって意味では強いんだけどね…」とおっしゃったことがある。
先生は生徒一人一人にかなり真剣に向き合う人で、その頃彼からいろんなことを学んだのだが、一から十全てを説明してわからせる、というやり方をことさら嫌っていらっしゃったようで、いつも断片的な結論だけを言って後は私に考えさせる、と言った風だった。
ある時には「お前は“アーティスト“じゃなくて“技術者“になれ」とおっしゃり、私が「それはどういう…」と聞いても頑なに意味を教えてくれなかった。まあしかし、今考えるとあの当時「自分はアーティストになるのだ!!!」という勢いで技術をつけるよりも先にアーティスティックな絵作りを優先してしまっていたら、画力を得る努力を後回しにして「なんちゃってアーティスト」としてどんどん屈折した道を歩むことになっていたと思われる。
然るに先生の話すことにはいちいち深い意味があり、「“見ない“ってことはーー」という言葉にも何か隠された意味があったのだろうと思う。
先生と連絡を取り合うこともなくなった今、その意味に関しては推測するしかないのだが、思うに「お前はもっと他人の絵を見ろ」「もっとさまざまな経験を積め」という意味だったのかなあ、とこの数日ぼんやり考えている。
そも私は、昔から一のインプットに対して十のアウトプットをしてしまうかなりの多産タイプで、飲み込む側からとにかく吐き出していないといられない人間だった。ひどい時にはほとんどインプットに当たる作業をせずに、ただただ生み出すことしかしていない時期などもあった。
当時の私が描いていたものを貼っておく。
ひどい出来である。
まあ、このクオリティのものを、なんだかもう訳もわからずに量産していた。とにかく描いていないと落ち着かず、昼夜を徹して描き続けていた記憶がある。
見ていただけると分かるかと思うのだが、まず人体構造が取れていない上に、ディテールも全く詰められていない。絵を「見る」、つまり「観察する」という初歩的なことができていなかったのである。
然るに先生のおっしゃったことも、おそらくは「まずはお手本を見てその通り描けるようになれ」ということだったのだろうなと思われる。他人の作るものが自分にはどのように見えているか、ということを実際にアウトプットした上での反応で理解しないと、他人にとって見栄えのいい作品は作れない。創作というものは言語であり、作家と受け手とのキャッチボールである。
要はこの頃の私は、まだ言語も覚えていない段階の赤子が言葉にならない言葉で大人に向かって何かを伝えようとする、ということを延々、本当に延々やり続けていたのであった。
世の中にはどのような表現があり、それは人にどのように受け取られているか。まずそのイロハから知る必要があったのだった。
それからも私はほとんど資料を見ずに自分の想像力だけで描く、というところから抜け出せず、他人の作品を参考にすると自分の個性が薄れてしまうと考えていたので、作品鑑賞も全く熱心にはやらなかった。結果としてかなり上達が遅れたので、結局「他人の影響を受けまい」と肩肘張ってしまうことは、絵描きにとってマイナスにしかならないのだと思う。
人から全く影響を受けずに作家活動をすることなど事実上不可能だ。他人の作品をちょっと見たり、それに感化されたりするだけで自分の世界観は日々置き換わっていくし、作品を見ずとも誰か他人というものに接するたびに「自分」の核は更新されていく。私はそのことをずっと認められずにいたのだと思う。
まあ斯様に遠回りをした訳だが、結局自分に必要だったのはアウトプットよりもインプットだったのだと気づいたのだった。
この話はここらで締めようと思うが、約一年後、一旦模写を挟んで絵柄を最適化してから描いたものを何枚か貼っておく。
だいぶマシになったわね。
無から有を生み出せる人なんていない、ということに最近ようやく気付かされたというお話でした。