世の中には、何かあったときにまず自分を責めるタイプと、反射的に他人に対する攻撃性として怒りを発露させるタイプがいるなと思う。
ここで断っておきたいのは、どちらが偉いとか劣っているとかいう序列を作るつもりはなく、また俺自身ももっと多角的な要素で人を判断していて他人を攻撃する人間は全員嫌い!!!というわけではない点だ。実際俺にも少なからず、というかかなり多めに他人に対する攻撃性があるし、それを度々SNSなどで発露してもいる。
人の行動原理としてまず第一に挙げられるのは"欲求(マズローの五段階欲求などがわかりやすい)"だが、俺はそれに並んで"コンプレックス"もかなりデカい比重を占めていると思っている。
例えば、ニキビができやすい体質でそれを苦にしている人間が、軽率にニキビいじりをされたりすると少なからず傷つくであろうし、そこから怒りや悲しみといった感情に転じやすくもあるだろう。一方ニキビなんてどうでもええわい、俺は肌状態がどうあれ好きなものを食って徹夜もする、という人間が同じようなニキビいじりをされたところで、そこまで大きなダメージにはならないと考えられる。
どのようなコンプレックスを持っているか、そのコンプレックスがどれだけ深いか、他の物事とどう結びついているか、という点がその人の行動や感情の傾向をかなり左右することがある、という話である。
そこいくと俺のコンプレックスの最たるものとは、「長いこと周囲の信用を勝ち得なかった」ことであり、その原因として自分が口だけ野郎であった期間がかなり長かったことを苦にしている。その状態からなるべく有言実行で生きる、という縛りを自分に課すようになって、それなりに信用や信頼を集めるようになった、という経緯を経ており、結果他人が昔の自分と同じように言うだけ言ってすぐに忘れたり、口先だけ立派なことを言って行動が全く伴わないのを見ていると猛烈にモヤモヤしてしまう。そのようなコンプレックスと憤りの関係が無数にある。
然るに、俺の攻撃性の大部分は俺が過去犯してきた失態とそれに対する反省から生まれており、"自分は反省してこんなにちゃんと生きているのに、同じような弱点があるこの人はなんの咎も負わず、自分を責めることもせずにのうのうと生きている"と言うある種の悔しさみたいなものから端を発していると言えるわけだ。
つまり、"他責"は多くの場合そこに至る経緯に"自責"をも内包している。自分が許せないから同じような形質を持つ他者に攻撃的になるのである。他責として行動が表面化するかどうかという違いでしかない。
なので、先にも言ったように俺は、恒常的に他責をしてしまう人間が全て悪いとか人として劣っているとは思わない。辛い目に遭い続ければコンプレックスは無限に膨らんでいくし、結果大量の地雷が生まれる。他責も自責もしない人間は、つまり良い人間に囲まれてコンプレックスがほとんど生じない幸せな人生を生きてきたというだけであり、人が善に寄るか悪に寄るかはひとえにその人が生きてきた環境で決まると思っている。
なので俺は、たとえ死刑判決が降るほどの重罪を犯そうと、その人間を芯から責める気にはならない。俺もその人と同じ人生を送ってきたならば、おそらく似たような罪を犯して同じところまで落ちる、という確信があるからだ。
何が言いたいかというと、全ての物事は繋がっており、意味はないが理由はある、ということである。
もちろん俺も、好きな人間たちにはなるべくニコニコと幸せに生きていてほしい。我も忘れるくらい怒っている人を見続けているとゲンナリしてくるし、なのでSNSなどで初対面の人間をフォローする際には、その人の発言をかなり遡ってチェックし、自分とフィットする人間であるかどうかを確認してからことに及ぶ。
まあそういうことを徹底してもたまーに「この人、見てると無限にモヤモヤするな…」という人を引き当ててしまうので、そういう時には心の中で謝り倒しながらフォローを外したりミュートしたりする。ぶっちゃけネットやSNSなんて楽しいからやるもんだと思っているし、無理して他人に付き合い続けて消耗するのが馬鹿らしいので、合わないな、と思ったら軽率に距離を置くようにしている。
俺をフォローしてくれている人たちも、無理をする必要は全然ないので、こいつ目に余る、と思ったらブロックなりミュートなりして自衛してくれるといいな、という思いだ。
SNSの功罪の一つに、一般人が気軽に思想を流布できるようになった結果、個人が提唱するローカルルールみたいなものが無数に生まれてしまった、というのが挙げられると思っている。本人は気軽に自分の価値観を呟いただけでも、そのつぶやきが共感を呼び、拡散につぐ拡散を経て大量のいいねを獲得してしまうと、一個の社会の中で力を持ち"マナー"や"ミーム"として実体化してしまう。そうやって人間社会は互いに互いを縛り合う生きづらい場所になっていく。
ルールに縛られていた方が生きやすい、という人間にとってはそれで良いだろうが、そうでない人間が一方的に割を食う。これは公平ではないと思う。
色々言ってきたが、みんなもう少しユルく人生を楽しめば良いのにな、という思いだ。どうせ生きている限り、人間は他者を踏みつけにし続ける。誰も傷つけずに生きていくことは不可能である。
大切なのは、誰も傷つけないことではなく"自分は人を傷つけながら、人の犠牲の上に立って生きている"ということを自覚することだと思う。みんながその意識で生きるようになれば、少しは優しい世界になるのではないだろうか。
施しあうことよりも、許し合うことが大切だと俺は思うのである。