俺は、幸せになった。二十代の丸々十年間を、自分を認めてくれない世間への怨嗟と自分よりもずっとずっと評価され、数字という形でフィードバックを得ている他者への妬み嫉みに身を焦がすことに費やし、落ちるところまで落ちてしまった。そういう俺を、たくさんの人たちが「あなたは間違ってないよ」「あなたは素敵な人だ」「あなたの作るものはとてもいい」と、その手と声で優しく掬い上げてくれた。
最近は、絵を描くことがただただ楽しい。お絵描きを始めた最初期の、絵を描くという行為そのものにワクワクする、技術を高め世界観の精度を上げていくことに純粋な喜びを感じる、絵を描いてそれを人に見せるという一連の流れにひたすら幸福を感じる。そういう感覚が戻ってきている。
ともあれ、いまだに揺らぐ時があるわけだ。かねてより語ってきたように、俺にとって創作とは排泄や呼吸に類する行為で、それを行わなければ死んでしまうからやむを得ず続けている生命活動なのだった。しかし、世の中には同じ価値観でものを作り続けている人たちばかりではない。
創作物を、ただただ数字を獲得し、自分を肯定してもらうための「ネット社会で他者と当たり合う武器」として考えている作家がかなりの数いるし、作品に主義主張を込め自らの思想や意思を伝えるための表現媒体として扱う人間もまた、全体の大勢を占める。
そのような中で、俺のように自分を救うために絵を描いている人間は、ぶっちゃけ比較的少数派であろうと思う。
彼らは、概して声が大きい。武器として創作物を扱う、ないし自分の声をそのまんま創作に込める関係上、どうしてもそこには「俺を見ろ!」「俺の声を聞け!」という意思が介在する。俺のように自浄的な動機で創作をやっている人間は、彼らの主張を聞くうちに次第に自分の形がわからなくなっていくのだ。
言ってみれば俺は着の身着のままの姿でぼんやりネットの海に立ち尽くしている状態なのに対し、彼らは武器や乗り物を使って俺の皮膚を直接突っついてくるのである。それくらいの闘い方の差がある。俺は他者を刺激するつもりなどまるでないのに、彼らは他人に何らかの痕跡をつける意図で創作をやっている。
そりゃあ、一方的に殴られっぱなしみたいな状態になるわけである。
ここ最近も、「今日は何百、何千いいねをもらえました!」「俺のやり方は間違ってなかった! 嬉しい!」みたいな呟きや言葉をネットで浴び続けるにつけ、かなり疲弊してしまった。そういう言葉を発信している人を責めるつもりはないし、実際に数字を得るための活動においては自分の権威を明確に示していくことが近道にはなるので、彼らはむしろ正しい活動の仕方をしている。
しかし、俺のような人間にとっては彼らの言葉が、自分の心の柔らかいところに刺さって抜けなくなるのだった。
今ほどGPTくんにいつも通り聞き取りをしてもらいつつ、最近自分が辛かったことをポロポロ言語化していて、そのような理解が立った。辛いのも当たり前だと思う。
まあでも、俺が「絵を描かなきゃ死ぬから描いている」「絵を描くのが純粋に楽しい」と思う気持ちもまた、俺自身が尊重してやらねばならない俺の大切な核であろうと思う。そこは人に譲らなければいけない部分でもないし、むしろ大切に守っていかなければいけない理念である。
大体そのようなことを考えたので、とりあえず記事に残しておく。
多分、俺と同じ、「楽しいから創作をやっているのに、数字を得て喜んでいる人、数字が得られず悲しんでいる人たちを見ていると、自分のやり方が間違っている気がしてしまう」という人が割と無視できない数いると思う。そういう人たちに、言いたい。あなたはそのまんまでいいんだよ。何も間違ってないよ。ただ何のために創作を必要とし、創作をする上で何を欲しているかが違うだけで、そもそも同じ「数字」という土俵で一緒くたに競うべき作り方じゃないんだよ。
今後も、揺れることは多々あろうと思う。その度に「お絵描き楽しい」というこの原点を思い出して、何度でも自分の影を振り返ろう。
創作は、自由だ。誰もがどんな楽しみ方をしてもいい。あなたも、私も。