以前から楽しみに記事を読んでいる物書きの「にゃるら」さんが、たびたびモンドリアンという画家について触れている。曰く、モンドリアンという人は引き算(というかデフォルメ、単純化)の美学を極めた人だそうで、彼の代表作である「コンポジション」は、ひどく平面的な線に囲まれた四角とその色だけで成立している。
彼はこの絵画で、都市部の雑踏を表現したらしい。この作品の複製パズルを購入するほどの傾倒ぶりを見せるにゃるらさん的に、この作品がたまらないらしく、ことあるごとにモンドリアンを引き合いに出して「洗練された美」について語られている。
で、まあ私も現代絵描きの一人として、「本物の美学」を擁する本作品、および本画家に敬意をもっているのだが、正直コンポジションという作品に関してはまだまだ理解が及ばないところである。
そもそも私は、引き算の美学というものがうまく理解できていない。昔から何もないシンプルな空間よりは、ものがごちゃごちゃと置かれた雑然とした汚部屋が心地よく感じるタイプであった。今もタブレットが二つ並んだ机の上に、飲んだあと放置されているペットボトルやら財布やらスマホ、ボールペンなんかが汚らしく散乱している。でも、私にとってはこの状態こそがほっとするのである。
引き算の美学を愛し、部屋の調度を綺麗に並べることに執心し、空間の演出にも深い造詣をもつにゃるらさんに対して、私はひたすらに足し算の美学を信仰してきた。…というとなんだかえらく思えるが、要するにいいものはたくさんあったほうが素晴らしいじゃないか、という単純な美醜感覚から抜け出ることができていないのである。
この精神性は私の作るものにもよく現れていて、文章を書く際にもひたすら網羅的に思いついたことを加算していくという書き方をしているし、自分の描くイラストもひたすらタッチを重ね過密させていくという足し算によって成立している。
まあしかし、実際このやり方に限界を感じ始めているのであった。
足し算によって成立する「美」は、どこかで臨界を迎える。一つの空間に詰め込める線や色、形には限度があるし、そもそも過密しすぎた画面は認識しづらく、うるさい。特に「間」や「行間」を愛する日本人的な感性において、うるさい画面に対する忌避感は大きいらしく、故に情報量を間引いて全体をデフォルメする、というアニメやオタク系イラストの基礎がこの国で築かれたのであろう。にゃるらさんのもちえている引き算の美学も、極めて日本人的な感性なのだと思う。
そこをいくと、足し算の美を愛する感性は、おそらくはアメリカ的な感性なのだと思う。あの国ではとにかく巨大なもの、とにかく煩雑なもの、とにかく賑やかなものがいいものとされている。故にアメリカ発の「アート」と、日本発の「芸能」では、言葉の上で指し示す媒体は同じでもその趣はまるで異なっている。私もこれからも日本でやっていくのであれば、「引き算」つまり「間」の美学を理解できるようにならねばいかんのだろうなという思いだ。
先日も「タッチと情報量を間引いて少ない手数で成立させる画面を目指したい」というような記事を書いた覚えがあるが、要するに「引き算の美学を理解できるようになりたい」というような意味である。
というようなことを書いている割にすでに文字数が千四百文字に達しようとしている。お前の話はくどい。くどい。(自戒。