傷口に素手で触れられたらね…痛いんですよ…

山田 唄
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 今ほどnoteを見ていたら、去年頭に知り合いから「ラフ量産してるんじゃなくてちゃんと描いたら???」みたいなことを言われてひどく悩んだ、という人の記事に目が止まった。それはもう苦しそうだった。

 絵描きが真剣に描いている絵に対して「ラフ」とか「雑」とかいう人間はもれなく断頭台に送られるべきだ(過激派)と思うが、まあその人自身も書いていたように、言った側も悪気はなかったのであろう。悪気なく、あくまで当たり前のことをいう意識で、むしろ善意でその言葉を発したのである。クソッタレ。

 私も過去に「山田さんは毎回絵を最後まで描いていないように見える」みたいなことを散々言われ、苦しさに転げ回り、まあその他にも本来なら耳を塞ぎたくなるようなあれこれをかなり直接的な言葉で告げられて都度死にかけてきた。バトル漫画の主人公かと思うほどの過酷な展開の連続である。まあ俺はマジで主人公体質だったからそれらに対していちいちまともに向き合って、努力と継続で全て跳ね除けてやったわけだがな!!! はっはーーー!!! いい子は真似しちゃダメです。

 で、まあ今回その時のことを改めて振り返ってみて、私自身も他人に対して、特に他人の作るものに対しては、はっきり良し悪しを告げ改善を迫るのが正しいと思ってしまっていたなと、ようやく認識して反省した次第だ。

 本人は正論を堂々と吐いたつもりなのである。それが良くない。正論は確かに正しいから正論と呼ばれる。しかし、正しさを盾に相手に何らかの行為を迫ることは何も正しくない。

 その人間が相手に与えているのは「正しい言葉」であって愛情でも善意でもないのだ。いわば、餌も与えずに一方的に努力というただただ苦しい行為を強いている。それを言った人間自身は何も苦しむことなく、むしろ正しいことを言った恩人としてふんぞり返りながら、である。これは公平ではない。

 自分がリスクを負っていない人間からのアドバイスなど聞くに値しない。そいつには何の責任も重圧も課されていないからである。故にいくらでもいい加減なことが言える。私も昔はいろんな人にアドバイスと称してひどい言葉を浴びせてきてしまった。結果、その罪が一気に自分へのアドバイスという形で帰ってきたわけであったから、やはり私は苦しむべくして苦しんでいたのだろう。

 他人に触れる時、ちゃんと手順を踏んで相手を傷つけぬように配慮できる人は、本当に優しい人なのだと思う。本来ならそんな手間などかけたくない人が大多数であろう。特に、自分のやっていることがひたすら正しいのだと感じている人にとっては「自分が間違えている」可能性を考えるのは手間である。

 まあそういうところを経て去年は、人様に意見したりただ声をかける時にもとにかく気を遣っていた。自分が他人に優しく触れてもらえる幸福に気づいたので、できる限り人様にもその優しさを還元しようとしていた次第だ。結果として私の周りには、優しい人たちの優しいコミュニティが出来上がった。これが去年私が手にしたものの中でもとにかく巨大で強烈な恩恵だったと思う。

 「優しさ」というものに価値を感じられるかどうかは、ひとえにその人の過ごしてきた年月の重みによると思う。辛いこと、しんどいことをたくさん経験してきた人ほど、他人に対して同じ思いをさせまいと優しくなれる。その中でも、相手のことを心から考えて「本当の優しさ」を与えられる人は、実はほんの一握りなのだろうなと思う。

 本当の優しさを持てる人間になりたい。今年は優しい人間から本当に優しい人間へと自分をグレードアップさせたいな、と、そんなことを考えた一幕でした。今年も皆様と優しく触れ合う関係を築きたいです。押忍。

@yamadauta
創作やりながらギリギリで生きているおじさん。ここには普段考えてはいるけれど表に出せないタイプの思想強めの文章を書いて出ししていこうと思います。