作業場

yamazato haruka
·

家で作業ができない。

中学生か高校生の頃、期末テストの勉強があまりにも進まないので試しに学校に行ってみると、家とはうってかわって捗ったので驚いた。まるで自分ではない誰かが降臨して、その時間だけは集中して進められるような気がした。それから味を占めて、テスト前は学校か新都心にあるONE OR EIGHTというカフェに行くようになった。いま、十数年ぶりにONE OR EIGHTという単語を発して、猛烈に行きたくなってしまった。陽が入って開放感があっていい場所なのだ。作業や読書している人も、友人や家族で団欒している人もいるバランスのよい空間だった。次、帰省したらONE OR EIGHTに行こう。テスト期間中は同じ学校の人もちらほらいて、知ってるけれど話したことはない先輩が私服で勉強してたりなんかして、そんな様子を見るのも好きだった。

ただ、当時からカフェで勉強していることは引け目に感じていた。「カフェで作業してる自分に酔ってる」みたいな感じがしてダサくないだろうか。よく言う、スタバでMacbook開いてなんちゃらかんちゃら、みたいなことはいまはもう言わないのかもしれないけれど。ダサくてもしょうがないじゃん点数取れないんだからさ、と思いながら近所のカフェにそそくさと通ってきた。

第一に、カフェとは飲食のための場所である。一人で数時間滞在し、PCやノートと睨めっこされると店側も嫌である。それに、わたしだって移動するの面倒くさいし、お金はかかるし、親からも家でやんなさいよと言われて育った。あと、なんというか「二流」な感じがしないだろうか。本当に勉強に取り組みたいのならば、家でできることじゃないか。集中力がなさすぎるのではないか。どうしてできないんだと自分に問いながら、でもまったくこの部屋でやる気が起きないんだからしょうがない、と頭の中で会話し、のそのそと着替えて家を出ていく。

大学に行っても相変わらずで、家で勉強はできないのだと割り切ってファミレスに行っていた。追い詰められたときにはとりあえずジョナサンに行くことにしていたから、ドリンクバーで野菜ジュールを飲むといまだに「テストの味だ」と思う。


「わたしは所詮、家でできない二流のやつです」と、自分に対してそこまでは思わなくてもいいんじゃないかと思うようなレッテルを貼り続けてきた。そんなある日、西川美和さんの『映画にまつわるXについて 2』を読んだときにはえらく感激した。

『映画にまつわるXについて 2』は映画監督・脚本家である西川美和さんが、映画制作の日々や暮らしを綴ったエッセイだ。そのなかに『仕事場』という話があり、西川さんが脚本を書く際、毎日実家の近くのショッピングモールのコーヒーショップに通い、後ろめたさを感じながらコーヒー一杯で居座り脚本を書く様子が描かれている。

実家に帰ると居間のこたつに日がな一日かじり付いて仕事をしている、などとこれまで他所では言ってきたが、ほんとうのところは違う。そんな集中力があるならば、東京だろうと、居酒屋のカウンターだろうと、恋人の膝枕でだろうと仕事は出来るはずなのだ。

ではどこへ行くかというと、昼に起き出して家族と飯を済ませると、近所の国道沿いのファストフード店や、郊外型の巨大ショッピングモールのコーヒーショップに夕方まで入り浸るのだ。

エッセイでは、毎日同じようにコーヒーショップに来ては抹茶ドリンクを注文する常連客を観察する様子なんかも描かれている。

わたしが『仕事場』を読んで感動したのは、西川さんがつくるあの素晴らしい映画の数々が、どこかのコーヒーショップに居座った時間から生まれているのかという純粋な驚きだった。しかも、居座ることへの恥や後ろめたさみたいなものまで伴って。

西川さんのエッセイはどれも味わい深く、文章がほんとうに素敵なのだけど、とりわけ『仕事場』は大好きでたまに本棚から取り出しては読み返し、なんだか勝手に励まされている。


いまわたしの職場はリモート勤務なので、だいたい家で仕事している。小さな部屋に一日8-10時間くらい閉じこもってPCを見ているとたまに発狂しそうになってアーとかウーとか言っているが、慣れとは凄いもんで意外と家でもできるようになった。

ただ、やっぱり土日はだめである。なにか作業をしたいとき、家でやろうとしてもなかなか集中できなくて、懲りずにチェーンのカフェに行ったりする。こう書くと、なんだか忙しなく何かをしている人のようだが、全くそんなことはなく、業務効率が悪いのと、大抵はやらないといけないタスクを広げてぼーっとコーヒーを飲んだり何かを妄想したりしているのだ。

カフェに行って何か作業をしている人を見ると、以前は「ああ、あなたも家でできないのね」と勝手に同情していたが、西川さんのエッセイを読んで以来、いままさに隣の席から映画が生まれているかもしれないし、生活を変えるような事業が生まれているのかもしれない、と思うようになった。

いや、別にそんな大層なものではないか。せっかく出向いて進めた作業はなんの肥やしにもならないゴミかもしれないが、たとえそうだったとしても「二流」なんかではない。みんな何かに向き合っていて、自分もその一員なのだ。これからも誇りと恥じらいと後ろめたさを持って、どこかの作業場で作業していくのだ。