舞台『SHELL』を観て

yamahitsuji
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舞台『SHELL』を見ての感想です。ネタバレを含みます。

2回ほど見た。正直なところ、1回目はめちゃくちゃ面白い、が、ストーリーを何となく理解し、テーマなどの理解はふわっとしている、という状態。2回目はストーリーはちゃんとわかったが、テーマに対する主張はどこ?という感想だ。

テーマに関わる事項はいくつもあり、ある程度理解できるものの、主張が何かはわからなかった。単に私が理解できていないだけかもしれないし、こういう事象があるよね、という問題提起(そもそも問題なのかもわからないが)だけなのかもしれない。なので、この文章を書きながら噛み砕いていきたい。

作品の世界には少なくとも

  1. 特異性のない、多くの我々と同じ人間

  2. 希穂や陸のような、複数の人格で1つの肉体を共有する人間

  3. 未羽のような、2の人種を見抜く人間

の3種類の人間がいる。

1は特筆すべき点はなく、ほとんどの人間はこれだ。

2の人間は2グループ登場し、①希穂、高木、長谷川のグループ、②陸、歌手の女性、希穂代理のグループが存在する。この人間は肉体は一つだが、人格は独立しており、交代で肉体を使っている。なお、人格(顔)が変わると姿も変わる。同じ肉体を共有する他の人格を「絶対他者」と呼んでおり、接点を持つことを避ける本能がある。接点を持ちすぎたせいか、希穂は消滅してしまった。また、絶対他者に起きた事象をお互いに概念レベルで把握している。

3の人間は非常に稀で、未羽しか登場していない。「役所」と呼ばれる場所では未羽と同じような人が働いているらしい。この人間は複数人格で肉体を共有する人間を見抜くことができ、高木や長谷川を見て希穂だと確信できる。

気になること

気になる部分はいろいろあるが、テーマは「自己の中の多面性」「外部環境による自己の人格」を主に感じた。「ペルソナ」や「分人主義」的な話かもしれない。

ペルソナは「本当の自分が存在し、状況によって仮面を被り分ける」という思想。分人とは「1人の人間の中に、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格が存在する」という思想だ。ペルソナは本当の自己があるという考えの一方、分人はそもそも本当の自分など存在しない、という考えだ。

SHELLではどうしてもこの思想が連想される。先生が学校に来なくなったのは、「本当の先生はどんな人なの?」と咲人に質問を投げられたからだ。外部環境の影響を受けたペルソナを、咲人にあっさりと見抜かれたのだ。また、学校の生徒達も「清水学園っぽさ」を周囲から言われ、いつしかそれを体現するようになっていた。複数の人格を宿す人間は、まさにそれぞれの人格がペルソナあるいは分人なのではないか。

これらの思想を汲んでいると仮定し、各事象について深掘っていきたい。

絶対他者の存在

「絶対他者は交わってはいけない」という前提に疑問を呈す美羽に対し、「そちらのほうが都合かいい、世界の秩序を保つため」のような答えを明日実(歌手の女性)はしていた。これは分人を強引に交えてはいけないという主張ではないか。確かに別の人格として分けておいたほうが都合が良いことがある。ある悩みを抱えている知人に対し、その人との関係性によって全く異なる意見を言う事はあるだろう。このような場面で、お前の意見はどっちなんだと言われても、どちらも心からの本心であることもある。こういった人格の多面性を、無理やり統合した結果、希穂は消滅してしまったのではないか。

美羽は「ウイルス」

美羽は明日実に「私達にとってウイルス」と言われていた。絶対他者は関わってはいけないもの、互いを遠ざけていなければならないものだが、そこに美羽という存在によって接点を持たされてしまった。人格を分けていた、遠ざけていたが、複数人格を互いに意識、認識させる存在が現れたわけだ。複数人格として自己を分け、平穏を保っていた人からすれば、人格の境界を脅かす存在はまさにウイルスだろう。

希穂は混沌を望んだ

希穂は消滅することがわかっていても、他の人格と近づき、関係性を訴えた。複数人格の必要性を理解しつつも、違和感というか、それでいいのかと言う疑念を痛烈に表したように感じた。

私的感覚だが、分人として簡単に終わらせ、平穏を保てる話は多い。一方で、本当はどっちかを思っているのではないか、考えることをやめてしまっていいのか、真理はそれでいいのか、という絶対主義的疑念を抱くことはある。この感覚を希穂の消滅シーンによって強く感じた。

絶対他者とまざる

高木が長谷川の性格の影響を受けて、苛立ちを表すシーンがあった。確かに人格として別れていれば、苛立つこともなく快適に過ごせただろう。このシーンからは分人主義の利点が見て取れる。

未羽の存在が表すこと

美羽の存在によって、分人主義への疑念を浮き彫りにした感覚がある。人格を分け、平穏に過ごしていた人間たちに対し、別人格として切り出していていいのかと疑問を投げかけた形だ。希穂はこの疑念に乗ったのかもしれない。

結局作品のメッセージは何だったのか

これに関しては本当に何もわからなかった。

個人的には、分人主義的思想の必要性と違和感の対立を投げかける作品と受け取った。こうするべきだ、というよりも、この気持ち悪い、目を反らしたくなる感覚を劇として描き、観客に投げかけた作品だと思っている。

徒然なるままに書いてきたが

結局、分人とそれに対する違和感という、私個人が元々抱いている疑念に偏った感想・考察になってしまった。造詣の浅さが見て取れる。

一方で、現代美術的な解釈のし甲斐がある作品だった。見た人によって、異なる思想を受け取る作品だろう。

私の思想が変化したときに何を感じるのか、また見たくなる作品だった。