久美子の進路問題。答えを保留にしつずけ9月。音大には行かないという決断をした。決断というよりも表明だろうか。ずっと行く気はなくて、ただそれを決定づける根拠を見いだせていなかったのだろう。
その根拠を提示したのは鎧塚みぞれ。
「だって、そんな姿(音大で演奏する久美子の姿)想像できない」
「ですよね」
この会話の最中、久美子はみぞれが演奏していた姿思い出す。その光景が想像通りだったと思うと同時に、自分の演奏する姿を想像できなかったことに気付いたのだ。
久美子も近しい感覚を抱いていたが、言語化できていなかったのだろう。他人から言われて、自分の感覚がクリアになった、腑に落ちた。そんな印象だった。
というかこの言葉をみぞれにいわせるのはさすがだ。他の先輩は言葉を飾る、意見を濁す。対してみぞれは本心をそのままにしか言わない。久美子も感覚的にわかっていたからこそ、みぞれに聞いたのだろう。
振り返ってみると、久美子は環境への同化力が異常だ。
物語のはじめでは、久美子は俯瞰したちょっとすました中学生。まわりの環境を見てるし、負けて当然だよね、そりゃそうだよね、といった意見も持っている。もともと空気の読みが非常にうまいのだ。
そんな久美子が高校では熱血系になっている。変えたきっかけはもちろん高坂麗奈の存在、部の方向転換、そして一番は久美子自身の「なにかに熱中していたいという感情」に対する、ほんの少しの憧れだったのではないだろうか。
「なにかに熱中していたい」という久美子自身の本心、そこへ環境要因と環境に対する読み・同化力が重なって高校生の久美子を形成したのだと思う。
つまり久美子自身はなにかに熱中したかったのであって、極端に言えば元来音楽を愛していたわけではないのだ。だから部活の引退、つまり同化していた(音楽を極めることが正義という)環境の喪失を目前にし、久美子自身それに気づき始めているのだ。
久美子の音楽への「好き」は、「環境によって育まれた好き」であって、みぞれや麗奈のように「本性的な、魂からの好き」ではなかったと私は思う。
姉がやっていたから楽器を始め、人が足りないからユーフォを選択し、高校では他にやりたいこともなく、新しくできた友人の流れによって高校でも吹奏楽部へ。玲奈との再開、部活の全国へ行くという方針転換によって音楽へのめり込むものの、元来音楽にさほどの熱意はないのだ。姉がやっていたのがテニスであったなら、久美子もテニスをしていたのではなかろうか。
ここまでの話を読むとマイナスの評価のように捉えられてしまうかもしれないが、私はこういった久美子の「人間らしさ」がどうしようもなく好きなのだ。「本性的な好き」と「環境によって育まれた好き」どちらかが優れているなどとは1ミリたりとも思えないし、どちらも本人が幸せなら十分だと思っている。実際私を含め、多くの人が持っている「好き」は「環境要因が大きい好き」だろう。その中で私は「本性的な好き」に若干のあこがれを持ち、打ち込んでいたいと思うからこそ、久美子に自分を重ね、そのリアリティを愛おしく思うのだ。
冷めた人間から環境影響によって熱のこもった人間へ、そして環境の終焉とともに熱は冷め、純粋な自分へと向き合い直す。久美子がその先をどう歩むのか、結末が楽しみだ。