職場で「忙しい」「できなかった」「無理です」といった言葉を聞いたり見かけたりするたびに、私の心のなかにはいつも言葉にできないモヤりが広がっていた。
もちろん、自分が当人たちの抱えている業務量や個別の事情をすべて把握しているわけではない。
本当にマネジメントが機能不全に陥り、物理的に不可能を強いられている状況もあるだろう。だから、「一概に彼らが悪いと決めつけるべきではない」と自分をたしなめてきた。
しかし、それでも拭いきれない違和感の正体について、今朝ふとひとつの仮説に行き着いた。
私がモヤモヤしていたのは、彼らが「できないこと」そのものに対してではない。自分に与えられた仕事の役割を、「単に降ってきたタスクを消化するだけのもの」に矮小化し、その状況に思考停止してしまっている姿勢に対してだったのではないか、と。
「忙しいからできない」「無理なものは無理」。それらの言葉は当人にとっては事実かもしれないし、頭ごなしに否定するものではない。
しかし、与えられた環境に疲弊するだけの状況に自ら甘んじ、「だから仕方ない」と思考を止めてしまえば、物事が良い方向へ変わることなど絶対にない。現状を打破するためには、「じゃあ、その上でどうするか」を考えるための余白を自ら作り出し、行動を起こすしかない。
そう考えると、職場で飛び交う過剰な「忙しい」や「無理」という発言は、どこか「奴隷の鎖自慢」、あるいは「免罪符」のように私には見えてきてしまう。
本当の過重労働によるSOSは別として(そもそも声を上げることすらできないかもしれないが)、日常的に繰り返されるこれらの言葉は、「私はこれだけ過酷な環境にいる(=だからこれ以上何もできなくて当然だ)」という、変えられない現状を受け入れた上でのアピールに見えてしまうのだ。
自らの意志で鎖を外そうとするのではなく、自身がおかれた環境に繋がれた鎖の重さを言い訳にし、さも立派な盾のように見せつけている。私が感じていたモヤりの正体は、この「鎖への依存」に対する同族嫌悪や、もどかしさだったのかもしれない。
仕事というものは、与えられたものを漫然とこなすことだけではない。その制約のなかで「どうすればできるか」を考え、少しずつでも自分の手でコントロールできる領域を広げていくことがより良い方向に繋がっていく。
呪縛のような言葉を吐き捨て、どこか楽になろうとしてないか。もし思い当たる節があるのであれば、一度でも振り返ってみたら良いのではないかと思う。