今年も去年に続き、年間で100試合以上サッカーの試合を観た。
正確に数えてはいないが、ざっくり推論でいくと120くらい。
欧州の試合を一番観たので、シーズン中は週末に時間があれば2~3試合は見ていた。
それ以外にも国内カップ戦や、観に行ける範囲でスタジアム観戦にも行けた。
カテゴリーもさまざまで、ユースから代表まで。
なぜそんなに観るのか?というと、単純に面白いというのもそうだが、プレー以外で汲み取れる様々な文脈が、仕事や社会を考えることへのアナロジーとして使えるので、そこに面白さを見出してしまっており、やめられなくなってる。
例えば、資本の地域格差がそのまま各県のチーム力に反映されているだとか。
チームマネジメントが仕事のマネジメントの考え方に通ずるところがあるとか。
サッカーを観ながら、全く別の話題の抽象度上げた観点での共通点を探って、「なぜこうなりうるのか?」と考えたりするのが面白い。
かなりマニアックなので、共感も得られないとは思っているが、そんな感じ。
1つ思うのが、世界はこんなにテクノロジーが発展し、如何様にも技術の映像が見られたり、知識が共有されたり、言語化が進んで、スポーツそのものの進化が格段に早まっているにも関わらず、地方の育成年代のレベルは昔とそれほど変わっていないのは、なぜなんだろうか?という問い。
結局のところ技術や環境がどんなに進歩しても、それを活かせる人の部分が追いついていなければ、レベルは上がらないのかなと。
つまりは、指導者層が技術や知識を生かし切れるところに到達しなければ、具体的な現象には現れないということ。
進歩の地域格差は残酷で、それゆえに地方で生まれ育つ子供とそれなりに進歩に追従できる都市部で生まれ育つ子供とでは、才能の活かされ方自体に差があり、上を目指したい気概があった子供でも、生まれた環境の影響で才能が埋もれてしまう。
こんなことを考えたところで、答えが出ても何も生まれやしないのだけど、自分が何かを支える場合には、そういった機会の最大化みたいなのは、きちんと考えたいなと思う。
来年は4年に1度のW杯イヤーで、6月7月頃は試合漬けで観ることになる。
このW杯は過去2大会とはわけが違う。
2020年開催の東京オリンピックでメダルを獲るために、育成に手塩をかけられてきた年代の集大成になる。
久保、堂安、上田、板倉、冨安など、メダルを獲れなかった年代が、国際大会でリベンジとなる最後の大会だ。
正確にはその先にも出られる可能性はあるが、森保さんが指揮を執る最後の大会で、尚且つ森保さんに育てられてきたという意味、そして彼らが年代としてはベストなタイミング (27~28) なのがこの大会になる。
ベスト8は険しい道のりだが、なんとか結果を出して欲しい。
という感じで、来年も観れる限り観ていきたいと思う。