同じSNSに複数アカウントを作らず、異なるSNSに一つずつアカウントを持つこと

yashichi
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※「Fediverse (3) Advent Calendar 2024」12日目の記事です。

はじめに

Fedibirdにアカウントを作成して2年が経ちました。最近開放された「はなみすきー」にもいます( •̀ ω •́ )y

それぞれのSNSに、それぞれの自分がいます。ツイッターをやっていた頃は複数アカウントを持っていて、でもそれが別の人格を持っているような感覚はなく。ただ「こっちのアカウントは●●のこと書こーっと」「もう一つのアカウントでは▼▼のこと書いちゃえ」みたいな、書く場所を2つに増やしただけのような形でした。

今は、Fedibirdにいる自分とはなみすきーにいる自分、そしてもう一つ別のSNSにいる自分、この3人がそれぞれアカウントを使って投稿しているような、そんな感覚を持っています。

この投稿では、「ツイッターをやっていた頃」と「ツイッターをやめてFedibirdを始めたあと」の2つに分けて、自分のアカウント事情を書こうと思います。

ツイッターを使っていたときのアカウント事情

ツイッターにどっぷりだった頃、常に2つはアカウントを持っていたような気がします。

大学生の頃だと、一つは、サークルメンバーとかとつながる用途で、もう一つは愚痴用途として、ほとんど誰もフォローしないみたいな。社会人になってからも似たような使い分け方で2つは持っていました。

ざっくり言えばこんな感じ、よくある表・裏アカウントってやつです。

  • (ぼくのことを知ってるか否かに限らず)(他人から見て)まともそうであると見られたい自分アカウント

  • (投稿している)自分のことを誰も知らない世界でのびのびしている自分アカウント

表題の「同じSNSに複数アカウントを作らず、異なるSNSに一つずつアカウントを持つこと」ですが、ツイッターをやっていた頃から、FacebookやGoogle+なんかではそういうアカウントの使い方をしていました。しかし、そもそもツイッターにどっぷりだった頃の自分は、本当に日がなツイッターに張り付いていたといっても過言ではなく、正直FacebookやGoogle+は本当におまけ程度の認識だったと思います。

SNSというと、Facebookやインスタ、それこそTiktok等も含まれるという認識を「表向き」では持っていましたが、自分の実態でいうと「SNSとはツイッターのことを指す」に等しかったです。

後々、ツイッターを完全にやめることになるわけですが、表・裏 2つのアカウントを使うことに、最後の最後まで納得のいく使い分け方を見出すことなく離れることになりました。

表・裏アカウントの2つを持っていると、「この投稿はどっちでやるべきか…」と迷うことが結構な頻度でありました。特に社会人になってからは顕著で、もはや2つもアカウントは要らないんじゃないかと思うほどでした。

学生の頃は、先述のとおり、サークルメンバーなど実際にリアルで面識のあるひとと相互フォローになることがメインでした。それゆえ、裏アカウントはそういう繋がり・人目を一切気にしなくていいというメリットがありましたが、社会人になってからは、そういうひととの相互フォローはほとんどゼロに等しくなったために、表アカウントであっても繋がりを意識することが皆目なくなったように思います。これでは裏アカウントとほとんど変わりません。リアルで面識がなくても、リプ等の交流が活発であればまた話は違ったかもしれませんが、そんなことも無く…。

今考えると、だいたい5~6年は「ただツイッターに2つアカウントがあるひと」の状態になっていたことになります(´;ω;`) ※別に悪いことではないです。

ツイッターをやめた / いろんなSNSを使い始めて

社会人になってからもツイッターにどっぷりではありましたが、フォローしていたひとたち同士が、空中でお互いの悪口を言い合っていたのを見てから、急にツイッターを開くことが怖くなってしまいました。それ以前にも、ツイッター上で喧嘩みたいな投稿を見かけることが多くなっては来ていましたから、ネガティブな蓄積があったのだと思います。

ここらへんから、ツイッターに代わるSNSを探し始めました。今思えばあっけないものです。

ツイッターをやめるのは、思いの外簡単にできました。禁断症状もなく、スムーズにFedibirdに移ることができました。それは、Fedibirdがツイッターのような使い心地だったからだと覚えています。フォローしないと投稿が流れてこない。こういう部分がツイッターにそっくりだなあと。(連合タイムラインを除く)

そして今はFedibird、はなみすきー、それにGRAVITYという3つのSNSにそれぞれアカウントを一つずつ持っています。

SNSごとに違う自分がいる / 一人称の話

ツイッターをやっていた頃は同じ自分が複数アカウントを使い分けていましたが、今はSNSごとにそれぞれ別の自分がいて、それぞれの自分が投稿をしている。そんな風に感じることがあります。

最初に、そして一番それを感じたのは一人称の揺らぎと、その定まらなさです。

普段「ぼく」と自分を呼びます。「ぼくは~思います。」「ぼくなら■■します。」というふうに。ですが、SNS上ではそれを変えるというひとも多くいるかと思います。自分の場合「ワイ」がそれに当たります。くだけていて、それでいてどこかこの投稿が自分のことではないような、そんな感覚にさせてくれる。「「ワイ」を一人称にする自分と、普段の自分は完全には重ならない」それがなんだか心地よくてずっと「ワイ」を一人称にしています。

ではありますが、「ぼく」は自分を「おれ」と呼ぶことに憧れがあります。自分の一人称に「ぼく」が一番合っていると思ったのは小学6年生のときだったとハッキリ覚えています。当時剣道の習い事をしていて、同じ道場に通っていたいじめっ子が「おれ」と言っていたので、「それはぼくには似合わない」と直感したのです。それ以降ずっと一人称は「ぼく」です。

SNS上の自分が「ワイ」と自分を呼ぶたびに、「こういう呼び方をするのなら、別に『おれ』と言っても問題ないのでは?」と思うようになります。そのあたりからSNS上での一人称が定まらなくなります。

おれ、ワイ、ぼく、自分、ワチキ、ワシ、あたし、、、

それぞれの一人称ごとに、違う性格を持った自分がいるような感じです。Fedibird、はなみすきーでは「ワイ」「ぼく」「自分」を好んで使っているようですが、GRAVITYでは、先に述べた一人称をほとんどまんべんなく使っています。

SNSごとにアカウントを一つにすることで自分を発露しやすくなった

同じSNSにアカウントを複数つくっていたときの自分は、片方を自分A、もう片方を自分Bとして、それぞれを不可侵の存在としていました。ゆえに自分Aでは自分Bのカテゴリーに該当する投稿をしないようにしていましたし、逆もまたしかりでした。

しかし不可侵だったとはいえ、内容がA・Bどちらのものか判然としないものに対しては判断が甘くなりがちで、ゆえに次第に不可侵を守れなくなっていき、結局ただアカウントを2つ持っているだけの状態になったわけです。こうなると、今どっちのアカウントでこの内容を投稿しようか迷うことが頻繁に起きてしまって、ストレスになっていました。

そういう事情もあったので、まずFedibirdにアカウントをつくったときは、複数アカウントを作らないようにしようと決めました。こういうことを言うと、裏アカウントを使っていた当時の自分から「じゃあ、愚痴も表に出すのかよ」と悪態をつかれそうですが、その通りです。表に出します。

今の自分の考えでは、愚痴も、普段のどうでもいいことも、仕事のことも、趣味のゲームの話も、恋愛も病気の話も、すべて一つのアカウントから発せられている状態の方がより好ましいです。

出さない情報を増やすと、どの情報を投稿にするかで悩む時間が増える。自分が、ツイッターで複数アカウントを使っていたときと全く同じ悩みを抱えることになります。それなら一つのSNSに一つのアカウントのみにする方が自分に合っています。

なぜ複数SNSにアカウントをつくるの?

ここまで書いてきて、疑問が浮かんでしまいました。一つのアカウントから、ネガティブなこともポジティブなこともすべて投稿した方がいいと思うなら、なぜ複数SNSにアカウントを作るのでしょうか…。

複数SNSにアカウントをつくる理由だけでいえば、「サーバーダウンしたときの避難用」みたいな回答もできそうですが、それでは先述の質問に答えたことになっていません。

どうしてだろう…。

頭がこんがらがってきた

「それぞれのサーバーにそれぞれの自分がいる」、というのはあくまでもそれぞれのSNSにアカウントをつくったからというのがあり、別に複数つくらなくてもいいっちゃいいような気がするが、、

  • 複数SNSを使っていると、どのSNSに投稿しようかなあって迷わないの?

    • 迷うことはないかなあ。頭になんか浮かんだときに、開いてたSNSで投稿してるから。

    • あー、でも、絵文字をたくさん使いたい気分だなあってときははなみすきーに行くし、ネタバレ注意投稿をしたいときはFedibirdかはなみすきーに行くし、そういうのとは無縁の、文字だけ投稿をしたいときはGRAVITYに行ってるかも。機能で、投稿するSNSを選ぶってのをやってるね。

終わりに

結局自分は、複数SNSにアカウントをつくることのどこに魅力を感じているんだろうか…。考えたいテーマができたな。

おしまい