時間だけが癒してくれるって忘れるってことなのかな~とか思いながら暮らしてたらひょんなことでひょんとなって、こんな時間に泣きじゃくって頭いたいいたいになっている。も~~~泣きたくないのに!泣いてたらなんとなくその場の空気を察知して静かになっちゃう子だった。愛している文鳥の話です。すこしずつ涙を流さずに暮らしをやるようになってきてたのにねえ。あったまいたい!
亡くなる前日の夜に「おやすみ」って言えなかったことがずっと悲しくて、それを思うたびじわーっと涙が滲んでくる。なにか変えられたとかじゃなくて、でもただ言いたかった。ああこんなにもまだ悲しい。書きながら泣いている。こんなにも癒えないのか。仮におやすみって言えてたとしてもきっとなにかしら見出して後悔するのかもしれないけど、すくなくとも……いや~~~わかんない、これを書いてなにを求めているんだやわぬのは!わかんない。しずかなインターネットに頼りきりなのかも。寄りかかりすぎかも。でもこんなにも悲しいってことを「こんなにも悲しいよ!」って言える相手がいない。悲しいことに。うそ。それ自体はしょうじき全然悲しくない。ただ持て余している。持て余しているって言うとこの悲しみに失礼かもしれないけど、なんていうかこう……わあって泣いて泣いて泣いて散々泣きつくして、そんでようやっと、この悲しみを抱きしめて生きていくしかないんだおれは、って思うことができたらいいと思うんですよやわぬのは。でも現状はただ、打ちのめされている。あの子を失ってようやく知る、死なれるということはこんなに痛くて悲しくて擦り切れるほど泣いても全然泣き足りないことなんだ、ということに打ちのめされている。ちいさくてふわふわでぬくいいのちが手の中で生きていたことをもっともっともっと誠実に愛せたんじゃないかって、そういうふうに、わたしが愛しているいのちの分だけこんな感情を抉られるような後悔をすることになるんだって、こわくて仕方ない。そしてこれは誰にもどうしようもない。それがどうしようもなく厄介なこと。だってそんなん言われてもどうしようもないもんねえ。
あの子を失って二週間経って、まだこういう考え方の段階で立ち尽くしている。わたしは存在が生まれてくることの是非についてばかり考えていたなあと思う。生まれてくるということをわたし個人としては祝福できない。でも生まれてきてしまった以上は誰しも幸福になるべきだしなってほしいと願っている。そういう立場だった。でも誰かを失う悲しみを経験することを避けられない生って、こんなのを味わうことになるけどもいいかい?って生まれる前に尋ねられたらわたしはきっと躊躇していただろう。でもな~~~……お世話になった先生が書かれた、とことん死に向き合ったある本があるんですけど。今勇気を出して読み返してたら、そういうことかもなあって、う~……あ~……なんとなく思うところがある。でもまだわかんない。噛み砕けてない。
あの子を愛さずに生きていた人生のほうがこの人生よりもうつくしかったかどうか、そっちを選ぶかどうか、問われたら。あの子と出会って生きていられた人生でよかったし、きっともう一度選べるとしてもそっちを選ぶ。そういうことですか?痛烈な悲しみがこの身を貫くことを含めてもきっと選ぶ、そういうこと?わかんないわかんない!先生の前で泣きじゃくって話を聞いてもらえたらいいのに。そんなことができるタイプだったらもうちょっと色々楽に生きてこられたよ。
また午前三時。もう最近午前三時からしか眠れない身体になってる。一日一食で午前三時就寝なんてなんにもだれにも顔向けできない。わ~~~!!!でもあたまいたいから今なら寝られるかも。おやすみなさい、また今度。