嫌悪と反差別/文化と伝統

ややこしや
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なんか仰々しいタイトルになってしまった。

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例えば私は豊臣秀吉のことめちゃくちゃなんか本当に好きになれなくて秀吉の話を振られても眉間にシワが寄るだけなんですけど、彼が成した功績で評価できるものはもちろん真っ当に評価するし、現代においても大阪の人に「太閤さん」と呼ばれて愛されているのは素晴らしいことだと思っていて、私個人の感情として嫌いなのと、歴史上の人物としての評価は別なんですよ。

私個人の感情と、対象が今現在の世の中においてどういう立場にいるか/どう評価されているかって絶対に切り離さなきゃならないんですよね。そこはちゃんと意識したい。

これ、歴史学で「好きな歴史上の対象を卒論のテーマにしたい」って言う人が多分絶対に指導教官から口すっぱく言われるはずのことだったりするんだけど。

なにかって、インターネットでの論争を見ていてもよく思うんだけど、「個人の感情としては〇〇側の立場に近いが、様々な立場の声を踏まえて考えると〇△□であって欲しい」みたいなこと、ままあるんですよね。

超絶極端な話、「私個人として〇〇への嫌悪/差別的感情はあるものの、社会構造として〇〇が守られない/生きづらい/差別を助長するような状況は改善されるべきだと思う。」っていうのもあり得ると思っていて、というかあるんだよな実際。

過去の諸々で女性嫌悪感情がどうしても払拭出来なくて劣等感と怒りがぐちゃぐちゃのペーストになって底に敷かれてるんですけど、それが「歪んでいる」ことにはちゃんと自覚的で、それはフェミニズムへの理解と切り離されるべきだと思っている。みたいな。

なんかこう。そんな感じ。

だからわたしはすべての差別に反対しますとは絶対に言えないし言わないです。それこそそう言ってる人たちのことを半分くらい信用できなくて近寄りたくないと思っている。まあ向こうだって嫌悪や差別的感情があります!って言ってるわたしに近寄ってほしくないでしょうけど。でも別に彼ら彼女らの主張の内容の全部が全部に反対であったり無理解であったりするわけではない。寧ろ考え方としては同じな部分だってあるわけで。なんかこう、そんな感じです。

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これはまたちょっと別の話になるんですけど、わたしは大学でほんのちょっと歴史遺産保存について勉強してたのもあって「文化と伝統」は守られるべきだと思っていて、それらを軽視したり蔑ろにされたり否定的な言論を見ると瞬間的に着火しそうになったりするんですけど、だからといってその「文化と伝統」が現代にそぐわない形であるならば変化していくことも大事だし、寧ろそうあるべきだと思うんですよね。それが結果として「文化と伝統」を守ることに繋がるじゃないですか。

それが生き延びていくための変化。

だって世間の言う伝統ってものによってはたかだか数十年くらいのものだったりするじゃないですか、それ全体の歴史からみたらその中の直近の一部だけを見て伝統だ!って言ってたりさぁ。「今あるかたち」だってそのかたちになった当時の事情にあわせてかたちを変えたものだったりしない?っていうねぇ。そういう視点を無視して「文化と伝統」を他者を殴る棒にしようとしてるやつら、てめぇらこそ文化と伝統を蔑ろにしとるんじゃ。くそが。お口が悪い。そろそろ一旦黙ります。

@yayakoshiya
哉々子です。なんとなくSNSには書かない話題をぽつぽつ書くかもしれない。普段はのんびりいろんなオタクをしている。