街に出ると、たまにハッと目を引く人と出会う。原色の髪色、自分の好きなバンドのTシャツ、理想とする体型など、人が人の視線を引きつける要素は様々あると思うけれど、私の視線はいつも「あざやかな人」に吸い寄せられる。
weblio辞書によると、鮮やかという語には四つの意味があるらしい。
私の言う「あざやかな人」は4が一番近い。
かなり感覚的な話になるが、惰性で選んだ服ではなくこれを着たくて着ている、という意志がはっきり感じられる服装をしている人は、色味の彩度やコントラストにかかわらず、私の目にとてもあざやかに写る。辞書にあるとおり、生き生きとして見えるのだ。ということは、私はカラフルな格好をしている=あざやかという認識をしているわけではないということになる。自らすすんでその服を選びとった、能動的に選択し決定するという行為を怠らないことが服装から感じられる人を、私はあざやかだと認識しているようだ。
かつては、自分も明確な意思というか、少なくとも今よりはこだわりを持って服を着ていた。けれど年を重ねて自分が変われば、好みも、しっくりくるものも変わってくる。子どもから大人になるときの変化は、変わっていくことへの期待や喜びがあった。「自分らしさ」とでもいうようなしゃらくさい自我を獲得した大人が、大人でありつつ前とは違う大人にならざるを得ない際の変化は、戸惑いが大部分を占める。さらに私はいつもほんのり鬱で、鬱というのは人を無気力にさせる。服とかどうでもいいな、とりあえず無難なやつを着とくか、になる。ひどくなると、なにを着ればいいのかわからない、そもそも服を選ぶという行為がしんどい、というところに行きつく。
躁と鬱を行き来し、大人から大人への変化にうまく適応できずにおろおろしている。そんな自分だからよけいに、あざやかな人に目が行く。妬み嫉みなどはかけらもなく、美しい花を見るときにも似た気分であざやかな人々を眺める日々。出で立ちひとつで大げさなと言われるかもしれないが、生き生きしている人というのは魂の鮮度がいいのだと思う。
今の自分の魂を顧みてみる。しぼんでちぢんで梅干しの種みたいにしわしわのカチカチだ。水で戻したとしても、高野豆腐のように素直に膨らむことはないだろう。でも口に入れて舐めてみるとちょっとは味がする。転がすといびつではあるが音が鳴る。梅干しの種には梅干しの種のやり方がある。
思い立って白いブラウスを買ってみた。今まで似合わないからと敬遠していた、首元に大ぶりなリボンがついているやつだ。これでも買っとくかではなく、久しぶりに心からこの服を着たいと思って買った服。部屋の片隅に置いたショッパーを見ながら、もう少し暖かくなったらおろそう、と着るのを心待ちにしている自分に気づく。
「ボロを着てても心は錦」ということわざがある。それに則って、気の毒がられるくらい似合わないブラウスを着ていても心は錦、の精神で街を歩きたい。