いつかどこかで

詫び寂び
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二度と会えないはずの人と近頃よく会う。前の職場で隣の席に座っていた先輩、いっとき寝食を共にしていた知人、座って話ができていた頃の祖母。彼らと過ごす時間は、目が覚めてからもしばらく夢だと認識できないくらい現実的で、夢というよりも、明日過ごすかもしれなかった時間を体験してきたような気分になる。

先輩とは街のカフェで偶然出会った。「うちの子は二人とも小学生になってね」「もうそんなに大きくなったんですか」という会話のあと、本人にはとうとう言えずじまいだった「きちんとご挨拶もしないまま退職することになってしまってごめんなさい」ということを伝えた。ようやく謝ることができたと安堵した瞬間に目が覚めた。先輩からの返事は聞けなかった。胸のつかえが下りた感覚だけが残っていた。

知人とは見知らぬ街を旅していた。入った店でスキーウェアや民族衣装などを見ながら話し、キャリーケースのガラガラ音をBGMに歩きながら話し、なんでもないことをひたすら話した。辿り着いた駅でその人を見送った。これからどこに行くのかと聞くと、言わないよ! とその人らしいおどけた口調で言われた。握手もハグもできなかったが、体温が伝わってくるような笑顔だった。

祖母とは彼女が住んでいた家で過ごした。やや褪せたムーミンがプリントされたグラスにビールを注いで二人で飲んだ。〇〇ちゃんとこんなふうに過ごしたかったんよ、と祖母が言うのに、私もと答えた。飲み終わったら彼女が乗っていた単車の後ろに乗せてもらった。畑で獲れたキュウリを篭いっぱいに携えて、金色の稲穂をかき分けるように走って、最後は彗星のように消えていった。

三人とも存命だが、あの頃の彼らにはもう二度と会えない。あったかもしれない未来、存在しない未来、過ごしたかった未来を夢に見るとき、脳と宇宙が似ているという説が頭に浮かぶ。宇宙のどこかにもう一人の私ともう一人の彼らがいて、眠っているときにその世界を覗かせてもらっているのだとしたら。そう考えると、目が覚めたときの寂しさや切なさもそう悪いものではないような気がしてくる。