春と躁鬱、ときどき桜

詫び寂び
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春は躁鬱の季節らしい。当事者としてわからないでもない、というか現在進行形で心当たりがある。

私の場合、今春は鬱と鬱のあいだにすかしっ屁のような軽躁が挟まれるタイプの躁鬱をやっている。すかしっ屁とはいえ躁は躁なので、鬱をこじらせてほぼ寝たきりだった人間を新幹線に乗せるくらいのことはする。E席から、高速で過ぎてゆく風景を希死念慮とともに眺めていると、一転して窓の外が真っ暗になる瞬間がある。トンネルだ。拍子抜けするほどあっさり抜けることもあれば、一生このままなんじゃないかと思うほど長く長く暗闇の中を走りつづけることもある。一生このままなんじゃないか。つい昨日まで布団の中でまんじりとも動かずに考えていたことを、今日は激しく動く乗り物の中で考えている。変なの、と考えて、変なのはお前だと自分に言い聞かせる。

突発的な遠出から帰宅すると、その反動で軽躁を挟む前よりもきつい鬱が始まった。惰性でつけたテレビから、例年よりも桜の開花が遅いというニュースが聞こえて、さらに落ち込む。桜に同情するからだ。咲いたら咲いたで、見事な桜並木やそれを見あげる楽しそうな家族連れなどを想像して鬱々とするのに、いつもよりも仕事が遅いと言われて開花をせっつかれる桜の内心を思うと、お前もつらいよなと思わずにはいられない。

そうこうしているうちに、桜はあっけなく開花した。同情の心など寄せた私が愚かだった。こっちはまだ、もしかしたら今度こそ「一生このままかもしれない」鬱のトンネルの中にいるのだ。出口の見えないトンネルの中にいて、すかしっ屁のような軽躁にふりまわされているのだ。

何も為せていない自分。春の花としての責務を果たした桜。つぼみから顔を出したばかりの花びらはどこか稚くも、きちんと桜のあでやかさを備えていた。寝たきりのまま画面越しにその様子を見て、ふいに大丈夫かもと思った。相変わらず希死念慮は消えず、毎晩入眠に躓き、好きな本もいつものようには読めない。でも今年咲いた桜をきれいだと思えた。ちょっとした、大丈夫かも、を積み重ねて今年の春も生き延びたい。