背景
生成系AIに代表される情報技術の急速な進歩は、社会の在り方を大きく変容させていくはず。その中で、人間の「暇」は大きく増大する。そうでなくても暇を持て余しているので、人生を楽しむヒントを得られれば良いなと思い購入。
本の概要
哲学書。「暇」と「退屈」について古今東西様々な考えがあるが、それらをまとめて解説し、「暇/退屈とはなにか」「それらを無くすにはどうすればよいか」を考えた本。
章ごとの備忘録&感想
そこそこ長い本なのでしばらくかけて読む。そのため、備忘録的に章毎の内容と感想を更新していく。
序章:「好きなこと」とは何か?
イギリスの哲学バートランド・ラッセルは、1930年に出版した「幸福論」でざっくり次のように述べた。
今の西欧諸国の若者たちは不幸だ。なぜなら、ある程度社会は成熟し、一人ひとりが努力して成し遂げることがあまり残っていないために、彼らの才能を発揮できる場所がない。
一方ロシアや東洋諸国では、まだこれから新しい社会を作っていかねばならない。だからそこに暮らすi若者たちは幸せなのだ。
特に、革命まっただ中のロシアの若者は世界一幸せだろう。(要約)
言いたいことは分かる。確かになにかに熱中している瞬間は幸せだし、やることがない社会は退屈かもしれん。
でも、「暇と退屈の論理学」ではこの考えは採用していない。なぜなら、もしラッセルが正しいのなら、次の大きな矛盾が生まれてしまうからだ。
人は豊かになるために努力を重ねる。だから、その結果できた豊かな社会は幸福であるはずだ。しかしラッセルの考えでは、豊かな社会に暮らす人々は不幸である、ということになってしまう。
こんなバカバカしいことはない。これを一言で要約すると、
幸せになろうと努力すると、人は不幸になる。
ということになってしまうからだ。
またこの考えに立つと、人の幸せは社会の在り方に依存してしまうから、個人が幸せになろうと色々考えることもあまり意味がない。それはおかしいよねってことで今後の話が進んでいく。たしかにそんな悲しいこと言わないで欲しいとは思う。(後の章で出てくるが、「不幸に対する憧れ」を生んでしまうから倫理的に間違っているみたいな説明もされている。)
他にも色々書いてあるけど割愛。
第一章:暇と退屈の原理論-ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
そもそも「暇」と「退屈」とはなにかについて考察し、今後の議論の基礎とする章。
まず「人間は考える葦である」で有名なパスカルの議論から入る。彼の基本的な考えは、
人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればよいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。
ということだ。確かに。
生きていける程度に金があるなら部屋でじっとしていればよい。なのにそれができず、人々は外に出かけて事故に遭ったり、買い物をして騙されたりする。そう言われるとそうかもしれない。
その上で、パスカルは狩りの例を上げて分析を進める。
ウサギ刈りに行く人に、「ウサギが欲しいのかい?それならこれやるよ」といってウサギを差し出すと嫌な顔をするだろう。なぜか?人はウサギが欲しいからウサギ刈りをするのではない。本当に欲しいのは「退屈という不幸から気をそらしてくれる騒ぎ」が欲しいのだ。(要約)
この例では、ウサギを「欲望の対象」、気晴らししたいという気持ちを「欲望の原因」としている。そして、人々は欲望の「対象」と「原因」を混同している、つまり本当に欲しいのは気晴らしなのに、ウサギが欲しいと思いこんで自分を騙しているから惨めなのだ、とする。
そして、「日常の中で「君は欲望の対象と原因を取り違えているよ」と人に指摘する人こそ、最も愚かな人だ。」といきなり弾が飛んでくる。指摘したいと思ってたなんて言えない。
なぜなら、指摘する行為は結局気晴らしであるから、対象と原因の違いを知っているうえで自分はそこに陥っていない、と考えているところが愚かだから。
筆者も言っているけど、パスカルの読者を全て見透かした感じ怖い。
では、パスカル的にはどうするのが正解なのかというと、「信仰に身を捧げる」ことらしい。おーい。もっと簡単にできそうなのくれ。(ごめん)
その後ファシズムとか共産主義の話が色々ある。ざっくりいうと人は気晴らしを求めていて、それがウサギ刈りですむか社会運動や戦争まで行くかは社会の情勢による、みたいな話。
あとスヴィンセンが唱えた「ロマン主義が退屈の原因」みたいな話も出る。ロマン主義とはざっくりいうと「生の意味は自らで求める」みたいな思想で、近代に出てきた思想。
それ以前は生の意味は社会が与えていた(例えば身分制度で職業が規定されるとか)けど、そもそも生の意味なんてそう簡単に分かるわけないから退屈するんじゃね?だから、ロマン主義を捨て去れば退屈じゃなくなるよ。みたいな話。
本書では、そもそもロマン主義捨て去るって具体的にどうやるねーんみたいな話を出して、これも微妙だよね。ってことになっている。
(追記:感想なのにまとめみたいになっちゃって良くない。長過ぎる。今後は簡潔にする&時間あれば簡潔にまとめる。)
第二章:暇と退屈の系譜学
そもそも暇と退屈の起源ってなんだろう?ということで、歴史を遡って考える章。
ざっくりまとめると、人類は少なくとも400万年位歴史があって、その殆どを遊動生活で過ごしてきた。定住生活をするようになったのは1万年位でメチャ短いから、人類は遊動生活に最適化されてるよね、って前提がある。なんで定住するようになったかみたいな話もあるけど割愛。食料生産は定住の結果であって原因ではない、みたいな説とかね。
ほんで、遊動生活はめっちゃ頭を使うし刺激がある。移動するたびに景色は変わるし、毎回「餌はどこで取るか」「水場はどこか」みたいに考えなきゃいけない。結果、このような頭を使うタスクをこなすことに快感を覚えるように進歩する。
一方定住生活はそういう努力は少なく済むので、能力を活用したい、という欲望を満たせなくなって「暇」が生まれた。その結果芸術や工学に能力を使うようになり、1万年でとんでもない速度で文明の発展が進んだ。という話。
メチャ納得。
これのわかりやすい例としてトイレやごみ捨てを挙げている。小さい子供が言葉を話すなど高度な能力を持っていてもトイレを中々覚えられないことや、ゴミ捨て/掃除を全くできない人が居るのは、本来遊動生活では必要ない能力だから。遊動生活では適当に捨てても移動しちゃえばリセットだからね。でも定住だと環境汚れちゃうからやる必要があって、それはここ1万年くらいの最近に始まった話だから、できなくてもしゃーなし、みたいな事。
個人的にはトイレは分かるけどゴミ捨てはあんま納得してない。でも否定する材料も持ち合わせていないので、「納得してない」と感想を書くに留めておく。
第3章:暇と退屈の経済史
重要(っぽい)単語だけメモしておく。
暇と退屈の違い
暇は客観的な条件で決まり、退屈は主観的な状態。(暇の中にある人間は必ず退屈するのか?退屈の中にある人は必ず暇なのか?を考えるとわかる)
ウェブレンの有閑階級
貴族や利子生活者などは「品位あふれる閑暇」を持っている(有閑階級)。これは、伝統的に「暇であることを許されている」ので、暇の過ごし方を知っている。一方成金は教養がないのでそうではない。
フォーディズム(フォード社の生産システム)への移行
労働者をこき使う資本家が一般だった時代に、自動車メーカーのフォードは一日八時間労働や売上のインセンティブなど画期的な仕組みを導入したが、これは労働者のためにやっているわけではなく、むしろ生産性を高める為やっている。すなわち、「よく休む」という労働を課しているということである。
このような「管理された余暇」から抜け出したいと言う欲望からレジャー産業が生まれる。19世紀の資本主義は人間を資本に転化し、20世紀は余暇を資本に転化する。(前章の「供給側が需要側を操作する」こと)
ガルブレイスの「あらたな階級」
労働の中に給与以外の楽しみがあるような仕事をしている階級。ガルブレイスはこの階級は誰でも入れるとした上で、「ガレージの職工になった医者の息子は、社会からぞっとするほど憐れみの目で見られる」とするけれど、この哀れみを生み出しているのはそもそも「あらたな階級」の考えが原因。
ポスト・フォーディズム
本来良い製品を作り続ければ良いはず。実際フォーディズムの時代、フォード社は15年同じ型の車を作り続け、生産性の工場に伴いどんどん値段を下げていった。
→なぜフォーディズムは終わったのか?
経済が右肩上がりでないとこのサイクルが回らない
今はモデルチェンジしないと売れない。
特に2の結果、多額の投資をして機械設備を整えても、すぐに要らなくなってしまうと言う現象が起きた。その結果「労働者を教育し鍛え上げていく」モデルは維持できなくなり、現代日本社会のような派遣労働が一般化した。
なぜモデルチェンジしないと売れないのか?それは人がモデルそのものを見ていないから。パスカルの欲望の「原因」と「対象」を取り違えているという話にもつながるが、人は「新モデルそのもの」ではなく「新モデルを買った」という気晴らしを求めて消費する。それ故生産者もモデルチェンジしないと売れないというサイクルが周りだし、誰も止められなくなっている。
この話は次章の「消費と浪費の違い」に繋がってくる。
第4章:暇と退屈の疎外論
ボードリヤールの「消費と浪費」の違いの概念
浪費は物を得ているので満足するが、消費は情報(記号)を得ているので終わりがない。例えば豪華な食事や服を買うとき、一度に食べられる食事や着られる服には限界がある。これは生きるためには必要ない行為(浪費)だが、満足する。
一方消費は前章の「モデルを見ずにモデルチェンジした気晴らしを求める」みたいなやつ。これは「満腹」みたいに終わりがないし、得ているのは情報だから限度がない。明確な終わりがないから満足できず、延々と繰り返される。
消費のループにとらわれている状態を、「ファイト・クラブ」の例を上げて「暇無き退屈」としている。主人公の男は高給取りのサラリーマンで多忙、そして高級家具を買うのが趣味。つまり暇ではないが、(家具そのものが欲しいのではなく)「気晴らし」のために家具を買う、「消費のループ」にとらわれている。
マルクス/ルソーの疎外論
このような状態を「疎外」と呼ぶ。消費社会における「疎外」の嫌なところは、誰かが消費者を疎外しているのではなく、他ならぬ消費者自身が「疎外」を作り出し、「退屈」になっていることだ。
この疎外に関しては色々先行研究がある。この本では、具体的にはルソーやマルクスの疎外論を用いて解説している。
重要な点として、「疎外」という言葉は、「本来あるべき状態(本来性)から遠ざけられている」ようなイメージを持つ。実際そういう研究は多い(本でもいくつか紹介される)けれど、「本来性」というのは「還るべき場所」があるような概念だから、そこに到達することが正しい、そうでなければいけないという暴力性を内在する。それ故に扱いが難しく、近代哲学では疎外をテーマとして扱うのは良くないという風潮もあった。
でも実際は「疎外」と「本来性」は切り離して考えるべきで、「本来性」が暴力性を持つからと言って「疎外」の概念まで捨ててしまっては、本質的な議論ができない。
この前提を踏まえた上で「本来性なき」疎外、特にマルクスの疎外論を読み解くと、疎外の本質が見えてくる。