あだ名からひもとく真心のコミュニケーション

夏木紬衣
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山田さんと呼ぶより、太郎さんと呼んだ方が親しみやすい。太郎さんと呼ぶより、タローちゃんと呼ぶほうがもっと親近感がある。誰をどう呼ぶかは、コミュニケーションにおける大事な要素だ。人との適切な距離感を定め、距離のとりかた・縮めかたをコントロールする手段ともいえる。

大学を卒業して社会人になり、約1カ月の研修がはじまった。新卒入社を多くとる会社だったため、30人くらいを1クラスとし学校のような形で進行する。入社前の懇親会で知った顔もあるが、ほぼ全員が初対面だった。

2人がけのテーブルが用意された部屋に集められ、決められた席に着席する。これからはじまる社会人生活への不安や希望、初対面の人が集まる緊張でざわざわと心が落ちつかなかった。

講師がくるまでしばらく待ち時間があり、次第に談笑の声が大きくなっていく。周りの会話に耳をそばだてると、同じ大学の顔見知りや懇親会で仲良くなった人がいるようだ。親しい人がひとりもいないわたしは、不安を押しつぶすように冷静を装った。

じっと身をかたくするわたしをみかねたのか、隣の人が声をかけてくれた。どうやらわたしと同じように知りあいがおらず、同期と仲よくできるか不安を感じていたらしい。

当たり障りのない会話のラリーを続けながら、心のなかで早めに呼び方を決めようと意気込む。中学の頃にあだ名で後悔した経験をまだ引きずっていた。

中学校に入学して最初にできた友達と相性がよく、打ち解けるまで時間はかからなかった。出席番号が前後で席が近いことも手伝って、授業中に手紙を回したりテスト前に問題を出しあったりした。何度も一緒に下校したし、よく一緒に遊んだ。一番仲のいい友達でいわば親友だったが、呼び方を変えるタイミングを逃してしまったことにつまずいて、3年間ずっと初対面と変わらない「苗字にさんづけ」で呼んでいた。

そう呼ぶのはもちろんわたしだけで、周りの人は親しげにあだ名で呼んでいる。一番仲がいいにもかかわらず、一番距離のある呼び方をしていた。意地になって変えなかったのではなく、変えられなかった。気づいたときには今更すぎたし、急にあだ名で呼びはじめたことで周りから指摘されたり本人になにか思われたりするのが怖かった。変に憶病だったのだ。

中学の3年間、ずっとささくれのような小さな痛みを抱え続けた。過去の失敗を繰り返したくないという気持ちから、さっそく呼び方を決めようと「○○ちゃんって呼ぶね」と伝える。しかしコンマ何秒かの反応で失敗したと気づいた。言葉を受けとってもらえはしたが、最適解ではなかったようだ。結局、ほかの同期がつけたあだ名がクラスに浸透し、周りにならうようにそう呼ぶことにした。

失敗に失敗を重ねた。いまだにあだ名で相手との距離感をつかむのがむずかしい。

思えば学生時代から社会人になるまで、周りにいる人がごく自然にあだ名をつけてくれて、心地よく距離を縮めてくれていた。高校や大学の友達、バイト先の仲間、会社の同期、それぞれで違う呼ばれ方をされていたのを思いだす。どれも気に入るほどチャーミングな名前ばかりだった。あだ名に恵まれていたのは人に恵まれていたのと同じだとわかった。

失敗を重ねてしまったのは、コミュニケーション上手な人たちに甘えていた結果なのかもしれない。相手がすんなり受け入れてくれるなあだ名を思いつき、それを自然に"呼びこなす"のは、簡単なようでむずかしい。たいていの場合、誰かがそう呼ぶから呼んでいる、または過去に呼ばれたあだ名で呼ぶだろう。

これまでのあだ名はただのニックネームではなく、愛称として心に残っている。どの呼び方もわたしのことをよくみて名づけてくれたんだなと伝わる。親愛の気持ちがこめられていたことに、大人になって気づいた。

@ym_kn
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