数学の世界

松本佳彦
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1月下旬に、奈良の県立高校で1年生向けの出張授業をしてきました(それからもう2か月が経過している!)。高校に入学して1年間近くが経っているとはいえ、彼ら彼女らはたとえば微積分なんかは基本的にいえば知らないわけで、限定された知識だけを前提として何を話すかというのはなかなか悩ましい問題です。

今回の授業は「探究」(自分で課題を設定して、いわゆる調べ学習にとどまらない研究をする。ただし新規性は問題としない)のカリキュラムの一環であることを知っていたので、数学の話をしつつも、数学だけでなく何かを探究するにあたり役立つ結論を引き出すことを目指しました。例をひとつ挙げると、「既存の知見について、おかれている仮定を明確に認識して、それを変更したらどうなるかと考えてみる」というのは数学においては常識的な振る舞いですが、それを自分の「道具箱」の中に入れておいて、数学以外の場面でも持ち出してみるのはいいんじゃないか、みたいなことです。

さて、ここまでは前置きです。以上のことを目指しながら、今回の授業では、裏テーマとして「『数学の世界』がある」という感覚を伝えようとしてみました。ここで私は、「数学の世界」という言葉を「現実の世界」との対比で用いています。

例のひとつとして、実数の概念を取りあげました(いきなり「実数」という言葉は使いません)。ルート2とか、円周率πとか、みんな「ある」と思ってるけど、それはどういう理解/感覚に基づいているのだろう? 「図に描けるから」ということが案外大きいんじゃないかな? そう考えると、2.246098353871……みたいにめちゃくちゃに数字を並べた「数」って本当に「ある」んだろうか? 図形を調べていて現れるような数じゃないよね。文字を使って表せたから「ある」のかな? んー、でも日本語の文字をめちゃくちゃに並べた文字列はほとんどの場合意味をなさないけど? 数でもそうなんじゃないの? いったいどういうことなんだろうね。

実は数学の立場では、通常、現実的な意味で「ある」かどうかからはいったん離れて、2.246098353871……みたいなのも数学の世界において「ある」と信じることにしているわけ。信じるとはいっても盲目的にということではなく、そういう数もわりと筋のよい演算の対象になるから(ということを確かめて)、あったほうがなんかいいよね、という結論を出している。繰り返しになるけれど、この段階では現実的に「ある」かどうかは問題にしていない。そうして「数直線上に並んだ数」あるいは「実数」という概念をわれわれは手に入れる。「数学の世界」において。そういう概念が他にもいろいろあって、ときたま、現実と強く結びついて見事に応用されたりもする。でも第一義的には「現実と結びつくからすばらしい」わけではなくて、数学の世界に存在しているということ自体が、なんというか世界の深みなのだよね、私の意見としては。

日本の古典文学で〈この世ならざるもの〉がふつうに「いる」ことになっていたり、ファンタジー作品が一部の人の心をかなり本格的に支えていたり、そういうことに近い話だと思っています。