小学校でサッカー部に入っていたとき、何かの大会があって学校から背番号 10 のユニフォームを貰ったことがある。
サッカーで背番号 10 というとチームのエースというイメージが強いようだが、自分は完全なる補欠で結局試合にはほとんど出なかった。試合の前日に急遽補欠としてベンチ入りすることが決まり、他のメンバーは既にユニフォームを選んでしまっていたので、余っているユニフォームから自分の身体のサイズに合うものを選ぶしかなかったのだ。
自分はサッカー部に入ってはいたがサッカーにほとんど興味がなかったのでサッカーというスポーツにおける背番号 10 の意味など知るはずもなく、まあとにかく身体のサイズに合うのがこれしかないのだからこれでいいやという感じで選んだ。
ユニフォームを選ぶ際に一緒にいた同級生の部員が「背番号10 でベンチか...」みたいなことを言っていて、「あ、背番号 10 って多分エースプレイヤーが着るんだ」と初めて知った。ユニフォームを出してきた顧問の教師はどこか疲れた表情を浮かべていて、特に何も言わなかった。どうせ試合には出ないので背番号の意味なんてどうでもいいし、(おそらく無給の)休日勤務を早く終わらせたいといった感じだった。(本当にとんでもない顧問だ)
確かに大人になった今から考えると、小学生が出る試合のユニフォームなんてどうでもいいような感じがする。だが、補欠として背番号 10 のユニフォームを着なければいけないということに、当時の自分は酷く傷ついた。
正直に言って自分のサッカーの技術に自信はなかったし、別に試合に出たくもなかった。自分が原因でチームが負けるのが嫌だったからだ。正確に言うとチームの勝敗はどうでもよかった。自分が原因で負けることによって部員から冷たい視線を浴びたり、あるいは直接的に何かを言われたりするのが怖かった。あるいはそういう自分の無力さを自認することも嫌だった。
出たくもない試合。レギュラーではない補欠のベンチメンバー。おそらく誰よりもサッカーが下手な自分が背番号 10 という特別な意味があるらしいユニフォームを選ばされる皮肉。こんな状況を平然と生み出す部活という組織の冷たさや配慮のなさ。なんだか悲しくなって薄っすらと涙を浮かべながら家路についたような記憶がある。
もう 20 年近く前のことなのに、こうやって書くと今でもじんわりと嫌な気持ちが蘇ってくる。あるいはきちんと自分の中でこの経験と正面から向き合い、客観的に言語化できるようになるまでに 20 年の歳月を要したとも言えるかもしれない。結局、サッカー部に所属していた 3 年間は大体がこんな調子の思い出ばかりだ。いったい何のために部活をやっていたのか分からない。小学生の自分は、そういう無益な時間の使い方を認識して、自分でコントロールできるほどには賢くはなかった。教師に対する恐怖と同調圧力の奴隷であった。
こんな思いをする小学生が1人でもいるのなら小学校の部活動なんて無くしてしまえばいいんじゃないかと思う。顧問の教師だって義務的にやらされているだけで、気に入らないことがあると無闇に怒鳴り散らすし、部活を通じて教育的配慮みたいなものを感じたことはあまりなかった。一部のサッカーが好きで上手になりたい人たちは月謝を払って外部のチームでプレイすればいい。なぜ公立の小学校でやる必要がある?
これは虐げられた側の勝手な意見なので、いや自分は公立の小学校の部活で貴重な思い出を作り、人間的にも成長したんだ、という人も当然いるとは思うが...
近年、公立の小学校教員は不人気で、採用試験の試験倍率は毎年低下しているようだ。そういうニュースを読むと、こういった個人的な小学校時代の思い出が想起されて、まあ...そうだよなぁ...って思うのだった。実際のところ、こういう人って少なくないんじゃないかな。