最近口論をした。普段、感情を露わにすることがほとんどないので、自分でも驚いた。強い言葉を口にしたのは、議論が平行線だったことへの苛立ちもあったのだろう。けれど、それ以上に、何かを許せないと本能的に感じたからだった。
「(何かのインフルエンサー?)って魂の格が低いですよね」というのが相手の言葉だった。
人の価値を格付けする発想に対して、相槌を打つことはできなかった。それは、単なる価値判断の話ではない。格付けをすることで、「その人は劣った存在である」と線引きをしてしまうこと、それによって、世界を単純な優劣の座標に押し込めてしまうことが、耐えがたかった。
人は揺らぐ。迷い、矛盾し、ときに他者に優しくなり、ときにどうしようもなく残酷になる。揺らぎのない人間はいないし、揺らぐことができないなら、それはもう「生きること」ではなく、ただの機械的な運用にすぎない。
けれど、相手は「揺らぎこそが人間を曖昧にし、不完全なものにする」と考えていた。理性だけで価値を測ることができると信じていた。
「魂の格がある」と言うのは、何らかの座標軸に基づいて人間を評価できる、という前提に立っている。その考えは、一見すると理性的であり、冷静な価値判断に見える。だが、それはあまりに単純で、あまりに危うい。
感情は制御できるが、理性は制御できない。怒るべきときに怒ること、悲しむべきときに悲しむこと、それらは意識的にコントロールすることができる。理性だけに従おうとすると、人は簡単に暴走する。「これは論理的に正しい」と確信したとき、人は何の迷いもなく、他者を排除できてしまう。
「揺らぎ」を拒絶することは、人を均質なデータとして処理することと同じだ。かつての歴史の中で、何百万人もの人間が「不要な存在」として処理されてきた。彼らは、ひとりひとりの「顔」や「声」や「感情」を無視され、「価値のない人間」として格付けされ、消されていった。
それでも、「魂の格付け」を語る人間はいる。彼らは、目の前の人間の存在や街から見える生活の色を見ていない。地図の上から都市を見るように、数字の一覧を見るように、遠くから一括りに評価する。それが正しいと信じて疑わない。
けれど、地図の上から人は見えない。街には人が住み、それぞれの暮らしがあり、それぞれの痛みがある。「この地域の幸福度は○○%」と統計を出したところで、そこに含まれる無数の個別の悲しみを言い当てることはできない。
「魂の格が低い」と言われたとき、それを正面から否定しなければならないと思った。これを許せば、何か大事なものが損なわれる気がした。
だから「その話を俺の前で二度とするな」とだけ言った。
普段なら選ばないような言葉だった。議論の余地を残さない、乱暴な断絶の言葉だった。それでも、それ以外にできることはなかった。
口論は、理屈を尽くして相手を説得するためにあるのかもしれない。けれど、ときには「これ以上話しても無駄だ」という瞬間がある。人は論理で他者をねじ伏せることができるが、理性だけで他者と繋がることはできない。
人間の価値に揺らぎがあるように、関係にも揺らぎがある。どれほど言葉を尽くしても届かない相手がいるし、どれほど論理を重ねても共有できない価値観がある。
「魂の格が低い」という言葉を受け入れられなかったように、向こうも「揺らぎこそが人間性だ」という考えを受け入れることはなかった。
どちらが正しいのか、あるいはどちらも間違っているのか。それはもう、どうでもいいことだった。
大事なのは、「これを認めるわけにはいかない」と、自分の中で明確に線引きできたことだ。
世界には、理解し合えない人間がいる。だからこそ、人は揺らぐ。どこで線を引くべきか、どこで手を伸ばすべきか、そのたびに迷い、矛盾し、選択を繰り返す。
揺らぎがあるからこそ、人は人間でいられる。
それを手放すことはできないし、手放したくもない。