メル友とフェードアウトした話。
去年の秋頃から顕著になっていた、メル友との「私ら会話かみ合ってなくね?」問題。問題と表現したが、気になっているのはおそらく私だけである。
私たちはお互いに長文派だ。
私は、メール文化ってそういうものだと思っていたし、わざわざメールという媒体を選んでいるのだから、書きたいことが盛りだくさん!ということだ。
問題なのは、私は上記の理由から、メル友さんを「同じ種類の人間」だと思っていたことである。語りたいジャンルが違うとか、解釈違いで一触即発!とか、そういう類のものでも、そういうことも楽しめてこそ!じゃないか、と。
でも、どうにも、言葉に対する感覚、もっと言うと、属している場所が違うのではないか?と思えてきた。
私が長文を書けば、相手からも長文が返ってくる。でも、それは、私のメールの中身に触れて、その中に感じるものがあったから長文を返しているというより、相手自身の話題を並べているように感じられた。
どう言えばいいのか。SNSでよく見る言葉の羅列に近い。というか、あの手この手のお気持ち表明を延々と『眺めている』気分になるのだ。
愚痴も、感謝も、同じことを何度も書く。私はそれに対して、私なりの共感や意見を書く。でも、返ってくるのは、また同じ話と芸能ニュース。
それならもう、各種SNSと匿名掲示板を巡回している方が、まだバラエティ豊かである。
「自分ファースト」 「穏やかに」 「ありがとう」 「無理せずにね」
そういう言葉もすべて、 “関係を閉じないためのラベル” として置かれている感じがした。その言葉を書いた時点で、そのメールでの感情の循環、そのメールのテーマの循環は完了しているのだ。
それが悪いわけではないと思う。そういう関係を望む人もいるだろう。
でも私は、そのラベルを剥がして中身を見ようとしてしまう。その先の話をしたいと思ってしまう。相手の話をよく聞きたいからと意味を掘るほど、会話がズレていく。
メールをしているんだから、手紙と同じだという意識が抜けないのだ。私がインターネット老人会所属なのがいけないのかもしれない。
そこで私も考え方を変え、「LINEにしよ」と案を出した。相手の文章的にも、LINEの即時性向きだと思ったからだ。
「そうだね!」とか「わかる!」とか「〇〇は悪くないよ!」とか、そういうものだけが欲しいのだ、というのが分かったから。
だけど、相手は「既読の圧が……。メールだったら考えをまとめられるし」とか言う。その返事を聞いたとき、私は『会話の仕方そのもの』に対する考え方の違いを感じた。
試してみなければ、私たちの間で、既読、未読どちらが圧になるのかなんてわからないではないか。
もういいやって、気持ちになって、フェードアウトしてしまった。
最後に電話で話もしたが、根本的に、人付き合いのスタンスが違うのだから、これ以上何をどう変えても、私が認識してしまったズレと、そこから生じるストレスは変わらないと、はっきりとわかったからだ。
相手が悪いわけでも、私が悪いわけでもない。なんというか、合わなかったのだ。10年以上続いていたのは、私が合わせていたからだという事実が、なんかめっちゃ重いし、しんどい。
私は、言葉の意味を拾い、文脈を繋ぎ、考えを掘る。相手は、反応を返し続けることで関係を続けていく。たぶん、その違いだった。
だから相手は悪くない。でも、私も悪くなかった。
相手がどんな話題も、最終的に一般論で、「穏やかにいきましょう」とか、「ありがとう」って締めくくる度に、それ自体はおかしくはないけれど、私には「雑に扱われた」という気持ちを呼び起こさせる。
私の話を私の話として聞いてないと私は感じてしまう。最終的に一般論に回収した瞬間に、私の話ではなくなってしまう。
これが、悩みの核だったのかもしれない。と今は思う。
ここまで来るのに、私もAI相手に散々愚痴った。だから、メル友さんの「愚痴を言いたい」という気持ちはわかる。でも、その構造が私とはズレている、そこがしんどかった。
(第一稿は2026年5月10日)