2日に父方の祖母が亡くなって、今さら寂しい。
いつも親戚が亡くなると地元の曹洞宗のお寺にお世話になっているが、僕たち家族が特定の信仰を持って日々暮らしているわけではない。祖母の妹は火葬場で骨になった姉に再会した際に「天国で(既に亡くなっている)おじいちゃんに会えたかね」と呟いたが、たぶん、天国(浄土?)に行けるかどうかわかるのは四十九日だった気がする。
祖母の妹の祈りはこちらまでつられて泣きそうになるほど痛切だった。祖母の同年代の親戚は姉妹兄弟がとても多いのが当たり前で、だから今回の葬式も無くなった祖父と祖母に瓜二つの人が何人もいて、皆が枕のわずかな傾きで皮膚が少し下に垂れ下がってしまった祖母だったものに対して、あたかも今も生きているかのように(正確には、生きていて、静かに眠っている?)労を労って言う。
お疲れ様。良い顔だよ。苦しんでない顔だよ。ありがとねえ。いっぱい料理を作れると良いねえ。
祖母は人の世話をするのが大好きだった。いつもほっかむりをかぶって人にたくさんの料理を振舞ってくれた。普段は人前で最低限のことしか話さず、誰かが話しかけても半分くらいは無視するほど寡黙な父が、通夜振る舞いの挨拶で生前の祖母のエピソードを俯きつつ訥々と語り始めたとき、当たり前だが、亡くなったのはこの人の母だったのだと実感した。いつの間にか啜り泣く声があちこちであがった。母は父がいつも通りの雰囲気で挨拶を簡素に済ませるとばかり思っていたようで、唐突に明かされた祖母との思い出と、素晴らしい挨拶を済ませた父にも泣いていた。
祖母は僕の学校での話、特に地元を離れた関西での暮らしのこと、をいつも嬉しそうに聞いてくれた。社会人になってもそれは変わらなかったが、祖母の記憶は時たま前後して、僕は祖母のなかではたまに学生に戻るようだった。
いつも「ほうなんか」と目を細める祖母の顔も声も鮮明に記憶している。一方で、十年前に亡くなった祖父の「ほうなんか」の記憶は少しずつ薄れている。幼い頃、小学生くらいの僕は(今もそれなりに)臆病で、どんな小さいことをするにもそれなりの勇気が必要だったので、いつも周囲の誰かに背中を押して欲しいと願っていた。色々な理由によって両親にはそのような本音をなかなか話すことができなかったが、祖父母はいつも「ほうなんか」と頷いてそんな私の背中を押してくれたのだった。
近年の祖母は一人で過ごす時間が多く退屈だったようで、それを紛らわすかのように千羽鶴を折っていた(写真の千羽鶴)。もっと会いに行けば良かった、とはそこまで思っていないが、もっと祖母自身の話を聞きたかった、と思う。祖母はいつも亡くなった祖父と父の自慢話をした。何百回も学生の頃の父に関する自慢話を聞いて、最後には毎回励まされた。
正直なところ、祖母が亡くなったという知らせを受けた朝の時点では、電話口の向こうの両親に対してどういう反応をしてよいのか分からなかった。悲しい。悲しいのか? 実感もなかった。父も自分の母が亡くなったというのにやけに事務的に今後の日程を話していたのを記憶している。
実際に祖母のなきがらと対面して、この目の前のもの、人だったものが、つい昨年は僕の話を嬉しそうに聞いていた祖母だったのだ、という事実を避けようもなく突きつけられたその時、悲しいというより、何と言うか、また一つ別の世界にやってきたのだという気分になった。
ふとした瞬間に祖母がいないことに気づいて寂しさを覚えるということは、その前の一瞬において祖母がどういうわけかまだ生きていると勘違いしているんじゃないか、と思う。頭なのか、身体なのか、どちらかが錯覚を起こしている。この勘違いに気づくたびに、今はまだこの世界は移行期間にあるのだ、と思うことにする。自分はまだこちらの世界の規則に慣れていなくて、と居心地の悪さを紛らわすように苦笑いを作る。
中学や高校と卒業した時のあの寂しさと少し似ている。もうそこにいることはできない、滞在時間の限られたあの美しい世界から(実際に美しかったのかを知る術はもう残されていない)、時間が来たのでと背中を押され、また新しい世界に飛び込んでいく。
祖母との思い出に紐づく場所やものに祖母の姿を見る。田畑。そこに咲くホトケノザ。その花を覆う朝露。縁側に陽が差し込んでいる。祖父母のいた部屋には今は従姉妹の子供のための遊び道具が所狭しと並ぶ。
今感じている感情は祖父の亡くなった際にも感じたような気がしていて、しかしそれは忙しない日々のうちに薄れてしまったから、今回はここにその一部を覚書として残す。今はこういう気分だ。