いちばん古い記憶は、10年くらい前、6月ぐらいの木曜日4限目。おそらく専門科目の授業の時。専門科目というのは、資格取得のための授業。そこで見たのがいちばん最初の記憶だった。
それから本棚に文庫本をお迎えして、結局開いた時間より背表紙を眺めている時間のほうが長く、資格課程も終えてしまった。ついに大学で取得した資格をひとつも活かさないまま、こうして地続きの毎日を過ごしている。
そんなところで、きっかけがあってきのう読み終わりました。で、今日2018年リメイクの映画も見ました。つらつら感想書きますね…!
⬛︎紙が燃える温度
題名にもある『華氏451度』は、紙が燃える温度。普段慣れている摂氏に変換すると、232℃普段の暑い日より200℃も熱い。初めて映画を見た時に、木曜の昼下がり、慣れない英語音声・日本語字幕ということもあり「451度は紙が燃える温度」という記憶しかなかった。けれど、改めて読んでみるとこの451度がその世界にとってどんなに大きな意味を持っているかが痛いほどに感じられる。
「本を読むことも、持つことも許されない世界」
部屋をぐるりと見回してみる。横には作者買いしている未読の少女漫画の山、それに文庫本が積んである。その横にはそのうちZINE的なもので使うエッシャーとハマスホイ、エドワード・ホッパーの資料。右側には手帳、ノート、印象派のざっくりとした資料。もう少し視線を遠くに投げてみると、本棚。実は2層構造で、見えるところにはとっつきやすい文庫、見られても大丈夫なものが置いてあるけれど、少し動かさないと見えない奥の棚には漱石の文庫とサイン本、少しクラシカルなものが置いてある。さらに、扉を開けると本棚。本当に見られて困るものは引き出しに収納したが、ジャンル問わず漫画、文庫、好きな作家の歌集がずらりと並んでいる。家族の中でもいちばん文字に囲まれている生活をしていると思う。そんな生活を送っているので、この世界ではわたしは家族の中でもいちばん最初に狙われると思っている。
作中では、情報がどんどんわかりやすく、断片的なものになっていくことで、次第に考えずとも、生活できるようになっていった。それって本当に幸せなんだろうかとも思った。みんなと同じは確かに楽で、幸せなのかもしれない。けれど、それでほんとうにいいのかというのがわたしが感じたところ。
そんなところで、現代の暮らしを享受するミルドレッドの生活に疑問を持っている間に老婆の一件、ペイディーとの対話に発展していく。ペイディー…ほんとに………実はあのペイディーとモンターグが会話するシーンがすごく好きで。
(前略)お前のクラスにもいただろう。人一倍頭がよくて、暗誦したり先生の質問に答えたりをひとりでやってのけるやつが。ほかの生徒はみんな鉛の人形みたいに黙りこくってすわり、そいつを嫌ってるという図だ。放課後、きみらがいじめたりなぐったりする相手に選んだのは、そういう俊才君じゃなかったか?もちろん、そうだよな。みんな似たもの同士でなきゃいけない。憲法とは違って、人間は自由平等に生まれついているわけじゃないが、結局みんな平等にさせられるんだ。誰もが他の人をかたどって造られるから、誰もかれも幸福なんだ。(P.98-99)
「理解しておかなくてはならないのは、われわれの文明社会は巨大なものであるからこそ、少数派に不安を抱かせたり、心をかき乱されたりしてはならんということだ。自分の胸に聞いてみろ。この国で、おれたちがなによりも求めているものはなんだ?人はみんなしあわせになりたがるものだ、そうだろ?昔からみんな、そういってただろう?しあわせになりたい、とみんないう。じゃあ。しあわせじゃないのか?おれたちは人を感動させつづけているんじゃないのか、人に愉しみを提供しているんじゃないのか?それがおれたちの生きがいだ、そうだろ?愉しみと快い刺激を求めて、俺たちは生きているんだろ?おれたちの文化がそういうものを大量に提供してくれていることは、お前もみとめなくちゃならんぞ」(P.100)
めっちゃわかる〜。ちょうどこの部分をカフェで読んだんですけど、なんかもう、めっちゃわかる!と思いました。「わからないものは怖い」「わからないことは不安」「不安という感情は恐怖につながっている」と考えると、排除したくなる気持ち。わかる。ここのところでいう少数派は「わからないもの」のメタファーなんじゃないかなと感じました。だからこそ、古くからマイノリティは排除されがち。学生時代も変わり者すぎていろいろ好き勝手されてきた記憶がある。と、読んでいると嫌な思い出まで蘇ってきて嫌になったけれど、まあそうなんだよなと思った。
でもエッシャーの絵を初めて見たとき、すごく怖いなと思ったのを覚えていて。というのも、エッシャーの絵は(版画なのでもちろんそうなんだろうけれど)、白黒で、どこか掴みどころのない絵だったので、ちゃんとわかるようになるまでは本当に怖かった。いまは絵も人柄も含めて大好きです。
余談はさておき。カフェで読んでいたのですが、気がつけば物語の世界にどっぷりと浸かってしまって、とても申し訳ないことに、長いこと滞在してしまった。居心地も良く、ほんとうにすみません…!カフェラテ美味しかったです!さすがにまずいと思って2章の終わりで離脱。
⬛︎本は人である、わたしもそう思う
気を取り直して3章は家で読みました。帰り道ももう一軒カフェをはしごしてもいいんじゃないかと何度も考えたけど、きっとこれは最後まで一気に読まなきゃ気が済まないタイプだと思って、おとなしく帰ることに。2章から3章にかけて、衝撃の展開の連続で、坂道を加速しながら駆け降りるように進んでいく。逃走劇は逃走劇としてひやひやハラハラしながら読んだわけですが、いやはや、川を下るシーン、よかったですね。川を下り、追手を巻いて、新しいコミュニティと合流した時の会話が好きでした。最初に映画を見た時も、美しいラストシーンと共に、このあたりが「希望じゃん…」と印象に残っていたシーン。やっぱり原作で文字として読んでも美しい。
(前略)われわれはつねに移動しているから、どこかに埋ておいてまたもどってくるというわけにもいかなかったのだよ。いつ発見されてしまうとも限らないし。ならばこの老ぼれ頭に入れておくほうがいい。誰にも見られないし、気づかれることもない。われわれは、歴史や文学や国際法の断片、バイロンやトマス・ペイン、マキャベリ、はたまたキリストの断片の寄せ集めなんだ。それがここにある。(後略)(P.253)
形に残せないのならば、形のないものとして自分の中に残す、伝えていくというのがいい。きっとこのあたり、モンターグにとっても救いだったんじゃないかなと思った。「全部忘れるから書くね!」というわたしとは大違いだ…。
「本を表紙で判断してはいかんぞ」と誰かが言った。(P.258)
それと、本についてのこれも好きだった。つねづね、読書会などに参加したあとに「人は本、本は人」というのを感じているので、この一文はかなり刺さる。本は、そこにあるだけではわからない。パラパラめくってみても、いまいちわからない。読んでみて、咀嚼してみてようやくわかるようになってくる。そういうところが人間関係と似ている気がする。外見だけではわからない。よく口を開くと「変わっているね」と言われるのもきっとこの辺なんじゃないかなと思う。本も人も、外見ではわからない、だから楽しい。人の数だけ形があるから、もっと楽しい。そうなんだろうな。でも一方で、何回読んでもわからなくて怖い本もあるわけで、そう考えると最初のペイディーとの会話とも繋がってくるような気もしています。
⬛︎こころのゆとり
本を読むという行為は、やっぱり自分から向き合っていくものなのだなと思った。テレビや漫画よりももっと自分から向き合っていって、自分の中にある情報と結びつけていかなくちゃいけない。それが読書の面白いところでも るのだけれど、それ用の筋肉があって、ある程度鍛えないと面白さを感じられないのが難点でもある。『華氏451度』は本を取り上げることで、大衆から「考える余白」を奪って、もしかすると、心のゆとりまでも失われている世界なのかもしれないと思った。心のゆとりがないと、違いを受け入れられないから、どんどん世界が灰色になっていく。そんなときに鮮やかで、刺激的なメディアがあったら簡単に脳はだまされてしまうのではないか。そんな世界では、簡単にだまされるし、戦争なんてすぐに起きる(作中では一瞬だったのですが)
この人々が余裕をなくしていく感じ、ちょっとミヒャエル・エンデの『モモ』と似ていて面白いなと思った。向こうは時間泥棒だけれど。
でも、ラストはどうかと…。100分de名著でもスタジオの御三方がモヤってたけれど、わたしも同様に「えー!?」「いやいやいや」「え、ほんとに?」と思っている間に最後の一行を迎えていた。「いや、え、なんで?」と、いまも思い出すたびに、いまいち納得しきれていない。
おすすめされたときに「読みにくいと思っても諦めず最後まで読んで!」とのお話だったので、心が折れそうになりながらなんとか最後までたどりついてよかった。連休という時間に余裕のあるタイミングで読んだのもよかった。この余韻、平日に飲み込まれてたまるもんか。
⬛︎ついでなので、映画もみました。
作中で「火」の感じ方が変わっていくのが面白いなと思って、「おもしろかったなあ」の余韻が残っている状態で映画を見ました。2018年のリメイク版。わたしが最初に授業で見たときは2014年とかだったはずなので、初見ですね。休日のお昼ご飯はお腹もあんまり空いてないし、ぼやぼやしていると時間も微妙だしと思って、一人では食べないのですが、せっかくだし、見ながら食べようと思って今日は餃子を焼きました。餃子とジンジャーエール、完璧の布陣。
映画でも火は印象的に描かれている。でも、原作や以前の映画とは違った表現をしていて、面白かった。クラリス、ペイディー、同一の人物は出てきても、立ち位置や関係性が違っている。作中の目薬やAIらしいシステムの描き方もよりリアルでよかった。ペイディー、いやペイディー…。あらすじに書いてあったけれども、けれども…。
映画もラストシーンには異論あり。だけど、この「異論あり」の状態が理想なんだろうな、作品的に。わたしたちに考えさせる、話し合わせる余白を、意図的に作っているのかもしれない。だから、あえて言い切らない、正解は提示しないのかもしれない。賛否両論、いろんな人がいろんな考えを持てる余白こそ、この作品の魅力なのであると感じた。いろんな人がいて、いろんな考えを持つ。その背景にはその人が歩んできた、読んできた、触れてきた物語がある。この物語の世界から一歩出た私たちは、次に誰かの物語に触れる。それが狙いだったんじゃないかとも思っている。すでに誰かと話したいもんね。
とはいえ、1953年に発表され、50年以上読み継がれているのには理由がある。ディストピアは足音もなく、近づいてくるものなので。
まったく余談なのだけれども、U-NEXTで100分de名著を見ていたら、『華氏451度』の次が『群集心理』で思わずふふふとなってしまいました。
よい読書だった…、きっとどこかの読書会に持って行きます。