わたしには「ちるみ」という友人がいる。
苗字のおしり一文字と名前をそのまま繋げると「ちるみ」になるので、みんなにそう呼ばれている。このあだ名は端的に言えば、だーりお(内田理央)と同じシステムである。仮にわたしの名前をこのだーりおシステムに組み込むと「ワァ〜オ♡」と、テレビでエッチなシーンが流れた時の効果音のようになってしまうので、「ちるみ」という可憐でキュートなあだ名を導き出した苗字と名前はまさに奇跡的な組み合わせであるといえる。それにしても「名は体を表す」とはよく言ったもので、「ちるみ」という3文字には彼女の小柄で、チャーミングな雰囲気がよく表れていると思う。ちるみがこの世に生を受ける時、神様とちるみの親御さんの間で幾度にも渡る綿密な打ち合わせが行われていたのではないかと、つい妄想してしまう。
ちるみはとても素敵な人だ。わたしが平井堅なら「君の好きなとこなら、星の数ほどあるのに〜♫一つも言葉にできなくて〜♫」と天を仰ぎ、マイクを食べながら歌い出すところであるが、わたしは平井堅ではないのでここで星の数ほどある「ちるみの好きなところ」の一つを発表したいと思う。それは類稀なる文才か?ユーモアのセンスか?誰とでもすぐに打ち解けられるコミュニケーション能力の高さか?小さくて愛らしい手の甲のフォルムか?それは仲間内では周知の事実であるのであえてここでは特筆しない。それは「食べ方」である。
ちるみは「食が細い」ことを自称しているが、それはちるみの食べ方がとてもゆっくりであるから、だとわたしは考察する。例えば麺類を食べる時も、箸で一度に引き上げる麺の量が少ない。すするスピードもゆっくりだ。そしてこちらの話に相槌を打ちながら、ほほえみながら食事を進める姿は、たおやかで、余白があって、抽象的で分かりにくい表現となってしまうが「たっぷりとしている」。まるで刻一刻と過ぎていく目の前の時間を大切に噛みしめ、慈しんでいるようにさえ、わたしには感じるのだ。
先日会社の下にあるサイゼリヤに行き、「タラコとエビのドリア」を注文した。わたしは何も敵に追われているわけでもないのに口の中からものがなくなる前に次から次から食べ物を突っ込んでしまう性分である。そこで、ちるみがご飯を食べている姿を思い浮かべた。もしちるみだったらこのタラコとエビのドリアをどうやって食べるだろう。そう思いを馳せると、自然とひとすくいが小さくなる。そうして口に運んだひと口は、いつもより冴えて「食べている」という実感があった。いつも無意識下で行っている一連の動作(すくう、口に運ぶ、咀嚼する)がよりはっきりと分かるようだった。それは通常の自分の所作では感じることができない感覚だった。仕草を真似ることで、距離が遠くに離れていても、その人の存在を近くに感じられることがあるのだなあなどと、エレベーターで会社に戻る途中で考えた。なんとなく「瞳をとじて 君を描くよ それだけでいい」的な終わり方になってしまい、最後まで平井堅に引っ張られてしまった。