朝、改札の前まで来て定期の入った財布を出そうといつも通りポケットに突っ込んだ手は虚しく空をつかんだ。「おや???」リュックの中?でもないよな…とあちこちまさぐりながら数秒ぐるぐる考えて、ギクっとする。今朝は違うアウターを着てきたんじゃないか。「!!!!」のどの奥にひえっと走った衝撃といったら。
今日はずいぶん暖かくなると聞いていたし、家の中もエアコンをつけなくていいくらいだったからさすがに冬物のダウンじゃないなと、春先用のアウターに変えたのだ。財布はあちらに入れっぱなしのままに。
定期がないなら切符を買えばと思ったものの、財布自体がない。慌てた頭で、あれ、スマホでどうにかならないのかなと思ったけどさすがに券売機でペイペイは使えないか…これだから現代人はスマホでなんでもできると思いやがって…とアナログ人間であるもうひとりの自分が脳内で投げやりに呟いている。あーもう、どうにもなんないね?そうだよね?取りに帰らねばとほほ、と観念して引き返す。遅刻だ。
家まで急いで帰る途中で目の前の道を黒猫が横切っていった。にゃん。この暗示は結局「吉」なんだっけ「不吉」なんだっけ。まあどっちでもいいか。どたばたとクローゼットを開け、ダウンのポケットにズボッと手を差し入れまったく何やってるんだろうねえと財布を迎えようとした私の手はまたしても空を掴んだ。反対側のポケットにも、ない。「NO!!!」さすがにいよいよ混乱だ。待て待て待てと、部屋中を見まわす。まずベッドまわりにはない。そんなに物の多くない部屋で唯一本を積んでごちゃついてるあたりを漁り、これか?!と掴んだのはメガネケースだった。焦りすぎだ。小走りしてきて息切れした呼吸を整えながら、あれ?いやでもまさか?と恐る恐る背中に背負ったリュックをいま一度大きく開けて引っ掻きまわすと、ちゃんとそこにあるではないか財布!「〜〜〜〜!!!」なんでさっきちゃんと見なかったんだ信じられない私の阿保〜。へなへなとくず折れたい気持ちになりながら、そんな場合ではない早く出勤せねばメロス!と自分を奮い立たせる。すっかり忘れていたけど昨日の自分は店の釣り銭用に取っておくために小銭を取り出して、そのあとなんとなくリュックに入れたのではなかったか、今の今まで忘れてた昨日の記憶を巻き戻し再生してもう一度ため息。
瞬間、巻き戻し再生が行き過ぎて、18歳の春の日がフラッシュバックした。大学の入学式の日、やはり私は財布を忘れたのだった。
大した感慨もなく入学式を終え、武道館から大学へと歩き、ひと通りのガイダンスが終了するやいなや私は淡々と帰途に着いた。そしてやはり駅の改札まで来たときになってようやく、財布を忘れたことに気づいたのである。どうしよう帰れない。入学式には保護者も参加できるとあって、朝は母と連れ立って行くことになった。まだ定期を買っていなかったので切符を買おうしたら母が私の分まで一緒に買ってくれたものだから、財布がなくてもここまで来られてしまったのだ。困ったなと考えて思い浮かんだのは、同じ大学に進んだ高校の部活の同期の顔であった。まだその辺りにいるだろうかと頼みの綱にすぐさま電話すれば、やってきた彼は「ここまでどうやって来たんだよ〜」と半分呆れ、半分笑いながら電車賃を貸してくれた。「いやーほんと、頼りになる男だね!」同期ながら兄貴肌で実際何かと助けてもらうことが多かった彼に「わかったわかったから」と言われるまでお礼を言って別れ、その日私は無事に帰宅することができた。このご恩は忘れていませんよ。相変わらず財布は忘れていますが。
以上、どうでもいいことこの上ない、ただのとんまな話です。でも春ってぼんやりしがちじゃありませんか?というわけで私は忘れもの予防強化月間をここに始めます。