酒とドリカム

yonyon
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物心ついたときにはその酒屋はたぶんもうそこにあったと思う。地下鉄の出口のすぐ隣、この町のいちばん大きな交差点の角にあるのだから何はなくとも通りかかるのに、その前をずっと素通りしてきた酒屋。いや、正確に言えば10年ほど前に一度だけ入ったことがあるのだが、それきり行かなかったその店にこの度はしかと意思をもって入ってみた。というのも、日本酒好きなうちのお客さんから「え、近いのに知らないんですか?あそこは熟成酒がすごくいいんですよ」と教えてもらったからだ。最近ちょうど、ちょっと熟成気味のお酒を好むようになったので俄然興味がわいた。

酒ならナチュラルワインと日本酒が好きだ。ナチュラルワインに関しては、やはり同じ町に絶大な信頼を寄せる店があるので何も考えずともほとんど自動的に、おいしく好みに思えるものを手に入れることができる。それに対して日本酒はなかなかどうして難儀する。酒場で飲んで気に入ったものを、これが欲しいと探してみると、取り扱いのある店は都内に数箇所点在するのみでそこまで行くか、オンラインショップを持つ酒蔵ならそこで購入するかなど。またなんとなく酒屋に行ってみて、説明の札などを見ながら買ってみることもあるけれど、その説明のイメージと実際に感じる味わいがいまいちしっくり来ないこともままある。だからできればやはり、件のナチュラルワインの店のように、好みの味わいや傾向を知ってもらって選んでもらえるととても助かる。それにはもちろん足繁く通う店を持ち、信頼関係を築くべきなのだ。そして酒屋それぞれにも得意とするものがあるのも心得ておきたい。

その昔、私の日本酒の好みはかなり狭かった。クリーンで、澄みわたる清水のようにするすると飲み心地の良いお酒。そういうものをひたすら飲んでいたかった。それから、今っぽいというのか、フルーティーな風味と綺麗な酸のある、けれどやはりあと口はキレのいいものを好んで飲むようになった。その時は少しキャッチーなおもしろみを求めていたように思う。一度ものすごくクセのある熟成酒を飲んでみた時は、味噌というか醤油というか、色もずいぶん濃いし、その強さに面食らって、こんな酒もあるのか…と驚いたけどもっと飲みたいという気にはなれなかった。そういう時分に、まあどこでもそれなりには買えるんじゃないの?と例の近所の酒屋に飛び込んでみたものの、店主は私の飲みたい酒の相談に少し困ったような顔をしながら、それでもなんとかかんとか選んでくれた。が、やはり飲んでみるとこれじゃない感は拭えず、なるほどなんでもどこでも買えるわけじゃないのだなと知った。コーヒーの店に照らしたってそりゃそうだと思われるけど、こと他のジャンルの話になると門外漢丸出しである。

飛んで昨年のこと。豊富な酒のラインナップを持ち、料理もまた何を食べても粋で、旬の素材をすてきにさばく好きな酒場がお茶の水にある。顔馴染みになってからはあれやこれや話しながら気分を伝えると適当に酒を選んでくれるようになった。うっすらと暖かくなりつつも、夜になれば空気がひんやり冷え込んでくるような季節のある日、何杯目かでお燗にしてほしいと伝えた。それまですっきりとしたものを飲んでいたから、少しふくよかな味わいが良いとも。そうして出てきた酒は島根の蔵元で「扶桑鶴」と言った。淡く黄味がかった色をしたそれを飲んだとき、その引っかかりのないまろやかな飲み心地と、ほどよくうまみが乗って奥行きが感じられる味わいがじんわり温かく身体中に広がるように流れ込んできて、ほろほろとほどけながら、ふわーっと浮かび上がる感覚があった。なんと心地よいことか!

酒でもコーヒーでも、なんでもそうだが、私はあれもこれも飲んでみたい、その時々の気分で飲みたいものも変わるというタイプ。うちのお客さんの中には、そうではなくていつでも毎回同じ豆を買っていくというひとも少なくない。浅煎りのコロンビアのひと、中浅のコスタリカのひと、また中煎りのイルガチェフナチュラルだとか、中深煎りのブレンド、マンデリンの深煎り、、等々、こうしていざ思い浮かべてみると30種類近くあるうちの豆それぞれごとに実に様々根強いファンがついていて、そのひとは絶対に確実にそれを買っていくという風だから来店したらこちらももはや自然とそれを用意する。そういうひとたちを見ていると、他のものを飲みたくならないのかな〜と不思議に思う気持ちと同時に、それさえあればいいというそのブレない安定感に尊敬の念すら湧いてきたりするのだった。

扶桑鶴を飲んだとき、私は初めて一生これだけでもいいかもしれないと思った。懐が深く穏やかに寄り添って包み込んでくれる、毎日をともにしたい酒はこれだ、これさえあれば。たとえば人生の連れ合いにするなら私はこういうひとを選ぶんだろうという気持ちがよぎる。きっとそうなんだ〜あなただったんだ〜と脳内でドリカムが高らかに歌い出すくらい絶妙にしっくりと来てしまった、ちょっと熟成気味の扶桑鶴、ぬるめの燗で。この話をその店の店主にしてからというもの、毎度行くたび飲むたびに「これはドリカム流れますかね」といじり倒されてはいる。話がずれるがこの日のもうひとつ覚えているのは、いつもお通しから心憎いほどさらりと落としにかかってくるのこの店で、その日のそれが市場でラッキーに転がり込んできたというクラウンメロンのいよいよ熟れ熟れになったのを削り、"白和えない" 。言わばとうふソースがけ。こんな貴族みたいに贅沢なものを食べててバチがあたらないものかと思いながらも、滴るメロンの芳しくも透明な甘さがクリーミーな羽衣をまとっておよよと恍惚の味わいなのであった。

私のこの嗜好の変化は、コーヒーで言えば、淡い浅煎り好きだったのがこっくり深煎り寄りになったようなものだろうか。けれどもコーヒーに関してはやはりその日そのときの気分でなんでも飲みたいのは一生変わらない。これは決してゆずれない。いろいろ飲めるのがうれしい、たのしい、大好き!というわけである。(うまいこと言った風)

改めて熟成ならここという酒屋として出合い直したその店でもやはり扶桑鶴の話をして(ドリカムの話はしていない)、選んでもらった日本酒を2本買って帰った。日置桜の「山眠る」22BYと杉錦の「きんの介」。さっそく山眠るの方を開けてみると、う、うまい。まさしく求めていた味わいで顔がにやけてしまう。そして選んでくれたそこの店主に心の中でがっしりと握手を交わした。何もないわが町だけど、おいしいワインと日本酒があるのだからなかなかいいじゃないか。ありがたい。ああ、もちろん忘れちゃならないコーヒーだってあるよと自信を持って付け加えておく。