展示を見て、とりとめのない感想の記録

yonyon
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見えるもの。見えないもの。目を凝らしてじっと見れば見えてくるもの。見せられているもの。見えなくさせられているもの。見たいもの。見たくないもの。私が見る。あなたが見る。見つめ返してくるもの。

西洋美術館で開催されている「ここは未来のアーティストたちの眠る部屋となりえてきたか? Does the future sleep here?」を見てきた。凄まじくよかった。気になる展示というのは、そのうち行こうと思っているとなんだかんだ機会を逸して会期が過ぎてしまうというのはよくある。私は月火が休みだけど美術館はほとんど月曜休館だから、月に4回ほどしかチャンスがないわけで、用事や予定があったり、何もなくとも気分や体調により先延ばしにしてみたりしているうちに、行かずじまいになってしまうのだ。この展示もそうなりかけていた。だからこそ、見逃さなくてよかったと心の底から思った。気づいたら閉館の時刻になっていて、4時間半も居たけれどまだ足りなかった。最後の方は駆け足、流し見になってしまい、図録も買えなかった。感じることも、思うところもたくさんあった。展示全体から熱い意欲がみなぎって、アーティストたちの精度、解像度も目を見張るものがあり、それぞれが繋がり共鳴し展開していく構成の意図、あの情報量の中から見た人それぞれが拾って知覚することの偶然性というか必然性というか、、。

西洋美術館の存在意義への問いを起点として浮かび上がるのは、われわれ自身の存在がいかなるものかということ。美術館が、国家が、個々人がどんな未来に向かっていけるのかということ。そのために記憶の糸をたぐりよせ、見えないものを見つめること。

以下印象に残った作家/作品のこと

中林忠良。立体的で光と生命を感じる版画。すべて腐敗しないものはない。美術館は記憶の貯蔵庫。先人たちからの影響を直接的に受けているにせよいないにせよ、脈々と続いてきた地平の上にいま自分もいることを俯瞰してみる。

小田原のどか。転がされる銅像。日本に西洋美術館があるということ自体に見て取れる西洋中心の帝国主義的な価値観。日本人のレイシズム。

田中功起。美術館が想定する"鑑賞者としての平均的な市民"からこぼれ落ちる、不可視化された人々を包摂すること。

ながしまゆりえ。絵を描いたり編み物をしたり何かに没頭する時間、そして互いを見合うということ。"ケアとは誰かを気にかけること。誰かとはなにより自分自身のこと。わからないことはわからないままでいいし、感情や身体のコンディションが整わないなら休んでもいい。相手との距離を縮めることだけを目指すのではなく、遠いまま放っておくことも大切な気がする。なにかに没頭する時間が、自分を労わる。没頭するわたしの隣に没頭するあなたがいる。他愛もないことや、真面目なことをお喋りしながら過ごす時間はきっと、未来の世界そのものを『制作』する力を持つはずです」。" 友人に見せたくてこの説明文は写真に撮っていた。

飯山由紀。自らと同化することを求めながら、自分と同じ権利をもつことを認めない様々な暴力。語ること語らないこと。歴史はたやすく歪む。個々人の記憶の中にこそ、歴史の真の姿があらわれる。

弓指寛治。浄化された上野公園。消えたホームレスはどこへ行ったのか。山谷に生きるひとびと、その個々の人生。

取り急ぎ思い出せる限りの走り書き置き。眠くなってきた。でも忘れないように朦朧としながら書く。書ききれない。書くのめんどくさい。これを整理しながら誰かと話したいのかもしれない。また書き加えたいことあればそうするつもり。