ある日、部下からこんなことを言われた
「⚪︎⚪︎さん(私)は、人情にアツそうなのに、隠してるように見えるんすよ。それはなんか信じたくないというか、そんなはずないって思っちゃう、思いたいんですよ。」
うん、そうだなぁ〜
そりゃ、自分では情にあつい、と思っていても人からどう見えているかはわからない。
そもそも、情にあつい(=ウェットな)の反対は、情にあつくない(=ドライ)な人ってことになるのかもしれないけれど、それがどちらであるのか、みたいな二元論で簡単に語れるようなものではないんじゃないか?
もし仮に、情にあつければどうで、情にあつくなければどうなんだろうか。
そんなことを大学生のとき、よく考えて友人と議論したものだった。
今思っていることとしては、
そもそもこのようなことを話さないといけない状態が、「愛」が足りていないからだということ。
つまりその人は、
「自分に対する愛」がある人なのかない人なのか、それが気になるのだろう、
だから相手が、ウェットな人間かドライな人間かすごく気になるわけだし、他の人との見解に相違があるとすごくまた気になるわけだと。(彼はある意味それを直接確認しに来ている訳ですごく素敵だなと感じているのは当然の承前として書いておく)
それに対して、自分はたしかに
昔はすごく気にしていたはずなんだが、ある時からあまり気にしなくなった。
気にしなくなったというより、
「自分」がある程度安定したから、
気にならなくなった、
むしろ、相手の揺れ動きを余計に感じるようになった
とも言えるかもしれない。
そのどちらが良いのか、
ということを言いたいわけじゃないけども、
少なくとも、
自分は周りの人にとても支えられていて、助けられていて、自分の強みや存在意義も感じられる状態である、ことは間違いない。
そんな場をたくさん提供できる状態を、
どう作るかなんだよなー。