最近自分の一貫性のなさに落ち込むことが多い。三日坊主という魔の言葉にしばられるように、決めたことは三日も続かない。というか、決めたことを始めることすらおっくうになっている節がある。
最近ほぼ毎日決意しては実行できていないことは、「真面目に生きる」ことである。わたし的「真面目に生きる」とは、早寝早起き、栄養があって消化にいいものを食べ、よく遊び、よく学ぶ生活を送ることである。その中で人生の階段を上がっていく。卒論を書き、大学を卒業して、就職して...。
実際は昼近くに起き、Xを見て、顔も知らないひとたちの言い争いにげんなりし、ゲームをして、またXを見て、ボーっとしていたら日が暮れる。外には一歩も出ない。出る用事がないから。
だいたいは、こんな生活していてはだめだと寝る前に心を改めようとするのだが、昼近くに起きるともうだめである。早起きできないと、1日がもうすべてだめになってしまったような気がする。習慣の力というものはとても恐ろしく、昼に起きてしまうとそのあとの流れがすべて同定されてしまうのである。「習慣がすべて」というのは、ある意味ほんとうである。
二ヶ月程度続いていた筋トレも、もう最近ではまったくできていない。筋トレをしようと思うならば、まず部屋を片付けなくてはならない。筋トレに必要なゲームも起動しなくてはならない。言い訳は無限に湧き出てくる。そして結局やらないのである。もはや自分の意識によってではなく、指の反射的な運動でスマホを立ち上げ、Xを見る。
そんな生活を続けていると、当然からだのあちこちに不調がでてくる。食べ物を消化できず胸焼けに苦しみ、原因不明の首の痛みに襲われ、スマホを見続けるのが難しいほど目の疲れがひどい。すべからく病苦のときを思ふべしとはよく言ったもので、健康はからだの調子がいいときの行動によって保たれる。だいたいこう不調がでてから後悔しても遅いのである。
環境というものは自分がコントロールできるものとできないものがあり、コントロールできるものはコントロールしていったほうが望ましい...例えば、できるだけ身体を動かし、ストレスをためないようセルフケアに徹し、早寝早起きを心がける。言うは易し、行うに難し。そもそもこれは自分にコントロールできるのかを考えるところからめんどくさい。僕の視界には常に家父長制と資本主義のバケモノがちらついており、コントロールせよという確率が、こいつらに洗脳された私の脳みその思い込みだったりするのではないのかと思うのだ。自分の行動は自分で制御せよ、制御できずに身体の調子を崩したらそれはおまえの責任です、だなんて、いかにもマッチョなバケモノの言うことじゃないか?
そうは言っても己の心身は大事なもので、ていねいにケアしていきたとは思うのだ。そのケアの仕方は健常者中心の言説にからめとられがちだから、なんだかおっくうになってしまうこともあるのだけれど、...。生の権力と自身の身体に折り合いをつけるのは、なんともむずかしい。