実は史実派生のキャラクターにハマったのはコンスタンティノス11世が初めてです。実在の人物を取り巻く歴史、そしてそれをどのように扱うべきかという迷いについては、前回その一端を書き連ねました。しかし、実在していたからこそ、彼が生きた痕跡が残っている(かも)しれないという嬉しさも感じています。なお、その希望的観測は、調べごとをしているうちに現在のイスタンブールには当時の建物、特に宮殿などの世俗建築はほぼ痕跡も残っていないと知り潰えたのですが。それでも、往時の城壁や教会建築などが残っていることについては、やはり嬉しく思います。
シリル・マンゴーの「ビンザンティン建築」では、コンスタンティノープルだけではなく、様々な地域の建築物が写真や図面を用いて解説されています。
当初の目的はコンスタンティノープルの大城壁や僅かに残る宮殿の詳細だったのですが、こちらについては求めていたような記述はありませんでした。その代わりに、コンスタンティノス11世がモレア(モレアス)専制公として居を構えた(はずの)ミストラ宮殿についての記述がありました(P176-P177)。
ミストラ(ミストラス)はペロポネソス半島の南東部に位置する城塞都市遺跡として知られています。ミストラ宮殿は標高約480mほどの場所にあるため、城下を一望出来たのではないでしょうか。
L字型の宮殿は第1期~第3期と段階的に建築されたそうです。正面の建物がパレオロゴス時代の建築とされており、二階部分が謁見用の大広間(資料によっては玉座)となっています。コンスタンティノス11世もこの場所で引見したのかもしれません。それを想像するだけでも心が躍りますが、個人的に特筆すべきはやはり専制公の居室です。中央部(L字の付け根部分)の建物の二階が専制公とその家族の住居とされています。最大の部屋は5×8mで、即席の専用礼拝堂も設けられていたそうですが、「廊下はなく、各部屋は互いに直接通じており隔離性は不十分だったので、あまり住み心地のよい建物ではなかっただろう。」と記載されており、さらには「一言でいえば、ミストラ公は豪勢な暮らしをしていたとは思えない。」とまで書かれています。帝都よりも栄えていた都市と言われていますが、それでも贅沢をする余裕はなかったのか、奢侈を良しとしなかったのかは分かりません。
面白かったのが「ビザンティンの支配者は、人目に触れずに移動するのがしきたりであったから、この中央建物から謁見用大広間へ通じる秘密の入口があったに違いない(現在では痕跡は全くない)。」という一文です。このしきたりについての詳細を調べるために、次はどの本を読むべきなのでしょうか……。
ミストラは世界遺産となっているため、訪れる方が多いようで、検索すると沢山の写真や動画を拝見することが出来ます。その中からミストラ宮殿を探しては、コンスタンティノス11世もこの窓から薄青の空や城下を眺めたのかもしれないと想像せずにはいられません。決して同じ景色を共有することは出来ませんが、それでも彼が生きた痕跡に少しだけ触れられるような気がして、愛おしく思ってしまうことはどうか許してほしいです。