風見裕也という男の話

yorunosoko
·

名探偵コナンに登場するキャラクターである風見裕也の話をしたいと思います。

念の為、先にご注意点をお話しします。ここに書くのは「風見裕也という男はどんなキャラクターなのか」について「私が思う解釈」になります。人それぞれ解釈があるかと思いますので、ここに書いてあることと異なる考え持つ方もいるかと思います。考えを押し付けるつもりはなく、ただ好きなキャラクターについて公式の情報を拾いながら語りたい!という思いで書いております。

こちらを読んでくださってる方にはもしかしたら今更の説明かもしれませんが、風見裕也に関して基本的な情報を書いておきます。

風見の初登場は劇場版名探偵コナン「純黒の悪夢」です。今では原作にも登場していますが、登場の順番としては劇場版→原作ですね。所謂逆輸入キャラクターというやつです。風見は「純黒の悪夢」で降谷零の部下として登場します。公安の降谷零の部下としてネームドキャラが登場するのは風見が初めてです。

風見は映画、スピンオフ作品、原作に登場しますが、作品によって性格や上司である降谷零への態度などに違いがあるところが他のキャラクターと違う特徴の一つだと思います。勿論、原作者以外の方の手が加わることによりキャラクター性が変わるキャラは他にもいますが、風見の場合はその差異が他の登場人物よりも大きい、と私は感じています。

どのように違うのか、映画、スピンオフ、原作と分けてそれぞれの風見裕也の話をしていきながらお話ししていきます。

まず、映画からです。

映画では「純黒の悪夢」「ゼロの執行人」「ハロウィンの花嫁」「黒鉄の魚影」に登場しています。

「純黒の悪夢」で初めて風見を見た時は、高圧的でいかにも嫌な警察官、という印象でした。実際、そういう風に見える描かれ方をあえてされているように思いました。他の部署の仕事を、無理矢理奪っていく高圧的な態度。風見(公安)のやり方に反発する捜査一課のキャラクターたちは、高木刑事や佐藤刑事と昔から馴染みのあるキャラクターなので、より肩入れしたくなります。そんなわけで純黒の風見への最初の印象は正直、あまりよろしいものではありませんでした。ただ、純黒の悪夢を最後まで観ると、そんな風見への印象が変わりました。

捜査一課に対しては高圧的な風見ですが、上司である降谷に対しては忠実です。忠実なゆえに、詳しく説明せずに指示を出す降谷に「振り回されてる」感があるんですよね。私は真面目で不憫なキャラを応援したくなる傾向にあるので、降谷の指示に戸惑う風見の姿を見て少し好感度が上がりました。単純です。

そして、今ではお馴染みとなった、女運の悪さも好感度上がりポイントの一つです。

純黒の悪夢で、キュラソーと共に観覧車に乗った風見は、最初こそ「思う存分痛めつけて」とノリノリでドS系の悪い奴をやっていますが、突然キュラソーが苦しみ始めると態度が変わります。キュラソーに対して「すぐに救急車を呼んでやる」と言うのです。尋常ではない苦しみ方をしている人間を見て警察官として正しい行動をしようとしているだけなので、特別褒めることではないのかもしれませんが、先程までノリノリで嫌な奴をやっていた男にそんな態度を取られると「こいつ、もしかしていい奴か……?」となってしまうのです。単純。

そして油断している隙を突かれ、キュラソーに気絶させられる風見。かわいそう。かわいそうかわいいポイントが加算されました。

最後に目暮警部と笑顔で握手を交わしているシーンも印象的でした。嫌な奴に見えたけど、実はそんなに嫌な奴じゃない。それが、純黒の悪夢での風見に対する感想です。

次に登場するのは降谷がメインとなる映画、「ゼロの執行人」です。こちらの作品では、コナンの正義、降谷の正義と、それぞれの正義の形が描かれています。正しくはそれぞれの「正義の表現方法・手段」でしょうか。二人とも同じ正義を持っているけど、表現方法が違うだけ、と脚本の櫻井さんは言ってましたね。

この作品では、風見の正義についても垣間見ることができます。

風見は、違法な手段を使っても、誰かに憎まれても、それでもこの国のためにあろうとすることを決めている男なのだと、ゼロの執行人を見て思いました。

ゼロの執行人では、蘭の父親である毛利小五郎が逮捕されてしまいます。そのように誘導したのは降谷ですが、風見も降谷の指示により小五郎の逮捕のために動いています。

降谷は勿論、小五郎が憎くてそんなことをしたわけではありません。彼の正義のために必要な手段であったからそうしたんですよね。

そして風見もまた、それがこの国のためであると(=降谷の指示がこの国のためのものであると)信じているから、正当ではない手段を使ってでも、降谷の指示に従っているんですよね。

また、ゼロの執行人では、公安の正義により涙を流した人々が出てきます。小五郎の逮捕に苦悩する蘭と英理。公安の取り調べ後に自殺した(と思われていた)羽場二三一の恋人の橘境子。羽場を協力者としていた日下部検事。

風見も降谷も、誰かを傷つけたくてそうしているわけではないのでしょう。だけど、「正義」のためならば、その涙も、自分たちに向けられる憎しみさえも飲み込むことができてしまう。それらを覚悟した上で、真っ当ではない手段を使う。全てはこの国のために。

とんでもなくひたむきでまっすぐで重い覚悟だと思います。彼らのしていることは褒められたことではないけれど、それを間違ったものだと言うこともできない・したくないな、と私個人は思います。

この映画で印象に残っている言葉があります。

降谷が言っていた、「自ら行った違法作業は、自らカタをつける」という台詞です。作中で何度か出てくる言葉ですね。

そしてそれは風見も持っている想いなのだろうな、と思いました。

物語の終盤で、橘境子が真実を知り、風見に感情をぶつけるシーンがあります。その後の、降谷と風見のやりとりから彼らの共通の覚悟が見えます。

降谷「どんなに憎まれようと、最後まで彼女を守れ。それが――」

風見「我々公安です」

降谷が最後まで言わずとも、風見は降谷が何を言いたいかをわかっているんですよね。自ら行った違法作業は、自らカタをつける。例え相手に憎まれていても。

純黒の悪夢より更に、風見がどんな人間か、というのがわかるようになっている作品だと思います。

他にも、風見の人物像が見えるシーンがいくつかあります。

例えば、風見は降谷の指示を忠実にこなしていますが、何も考えずに盲目的に従っているわけではありません。何故そのやり方にこだわるのかを問い、自分の意見を述べることもあります。

その際の「公安なら、令状なしの違法捜査もできるはずです」という発言から、目的のために風見は使えるものは使うタイプであることがわかります。それに対し降谷は「だからこそ合法的な手段も残しておかないと、自らの首を絞めることになる」と返します。「自ら行った違法作業は自らカタをつける。それが公安だ」という信条があるからでしょう。使えるものを全て使うことはできるけど、その結果自分の手に負えなくなってしまう可能性を危惧しているのでしょう。風見もその可能性は考えていないわけではないと思います。ただ、風見は令状なしの違法作業をしても自らカタをつけることができるという自信があるからこそあの発言をしたのかな、と思います。

また、「安室という男は人殺しだ」、とコナンに言うシーンから、風見の複雑な心情が窺えます。

風見が降谷の指示に忠実なのは、それが仕事だからというのはあるでしょうが、風見自身が、降谷の指示がこの国のためのものであると信じているから、というのもあると思っています。そんな、信頼を向けている上司が、「羽場を自殺に追い込んだ」というのは、風見にとっても衝撃的なことだったのではないでしょうか。上司への尊敬や信頼が揺らいだこともあったと思います。上司への信頼は消えずにはこにあっても、いや、あるからこそ、その上司が人殺しであるという事実との間で苦悩し、けれど誰にもそれを相談することができずにいたのでしょう。そんな中でようやく零すことができた本音が、コナンに向けたあの台詞だったんだろうと思いました。「降谷さんは」ではなく「君の言う、安室という男は」と、どこか距離がある他人行儀な言い方なのも、そうやってあえて心の距離を取らなければ「人殺し」とは言えなかったからではないかな、と思います。

他にも、「もっと早くわかっていれば我々公安の仲間が死ぬことは……」という台詞から、風見が仲間が犠牲になったことに対して何も感じていないわけではない、ということもわかります。

そうして風見が「どんな人間か」がわかると、愛着がわきますね。ただの高圧的な嫌な警察官、ではない魅力がこの映画でたくさん見つかりました。

また、これ公シーンや、相変わらずの女運の悪さに応援したくなる気持ちが増しました。

降谷と電話しながら、逃げる人々とは逆の方向に進む風見のシーンも、個人的に好きなシーンの一つです。周りの人間が避難するために走る中、風見は逃げるためではなく、最悪を止めるために動いているんだなあ、本当にこの国のために動いている人なんだなあと思い、ぐっときました。

私は、この映画を観て、降谷と風見に対しては「共犯者」という印象を抱きました。

降谷の指示を忠実にこなし、必要とあらば違法な手段を使い、誰かを悲しませることに手を貸している風見。風見もまた、降谷と同じ想いを抱き、誰かの涙を平和のための礎としながら、血に濡れた道を歩いているのでしょう。そしてそれに何も思わないほど、冷たい人間ではないのだとも、この映画を見て思いました。

次に風見が登場する作品が「ハロウィンの花嫁」です。

私はこの作品を観て、本格的に風見に落ちました。

怪我してるのに働いてて偉いとか、相変わらず女運が悪くてかわいそうとか、今回も死にかけてるのに生きててすごいとか、色々理由はあるのですが、決め手となったのは爆弾解体後の疲れ切った姿、だと思います。

なんか……すごい……ぐっ……と来たんですよね。あの疲れ切ってへにょ、とした姿に。今までキリッとした顔が多かったから、ギャップにやられたのかもしれません。

自分の首についた爆弾の解体を任せるって相当なことだと思うのですが、作中ではさらっと流されているため、私としてはどんな経緯で風見がやることになったのか聞きたくて聞きたくてたまりません。降谷がゼロであるため簡単に事情を知らない人間に任せられなかった、という理由はあるにしても自分の命を部下(爆弾解体は専門ではない)に預けるというのは相当な信頼関係がないと成り立たないことだと思います。

応募者全員サービスの描き下ろし絵で爆弾解体中の二人の様子を見ることができますが、風見はすごくしんどそうな顔をしていますね。失敗すれば自分が巻き込まれる可能性がある、というのはありますが、風見としては自分が失敗したら上司が命を落とす、方がプレッシャーだったのではないでしょうか。

対して、降谷の方は落ち着き払った顔をしているんですよね。元々動じる性格じゃないのもあると思いますが、それにしたってすごい落ち着き様です。部下に自分の命を預ける覚悟を決めているからでしょうか。やり遂げると信頼しているからでしょうか。

爆弾解体中の降谷の心情は描かれないのでわかりませんが、しかし、作中で言った「僕の優秀な部下」という台詞から、部下への厚い信頼が見えるような気がします。「僕の部下」でもよかったのにわざわざ「僕の優秀な部下」と言うのがいいですね。信頼に応えてやり遂げた部下への称賛と信頼が見えます。それを部下本人にではなく、自分に爆弾をつけた相手であり直前まで相手が勝ち誇っていたところに、バラバラになる爆弾を見せつけながら言うのがいい性格してるな、と思います。こころなしか自慢げにも見えますね。ゼロの執行人のこれ公インパクトを引きずっていた人間としては、降谷のこの発言には驚くとともに風見、良かったね……!と嬉しくもなりました。何かと振り回されたり不憫な扱いを受けていた風見が、ようやく報われた気がしました。「あの厳しい降谷が風見を優秀と褒めた」ことは結構大きいことだと個人的には思います。純黒の悪夢、ゼロの執行人で風見に対して応援したい気持ちが育っていたからこそこのシーンで良かったね……!という気持ちになれたんだと思います。そして本格的に風見はまった理由の一つでもある気がします。今までの苦労属性の積み重ねがここに繋がるとは……。

そして去年上映された作品、「黒鉄の魚影」でも風見は登場しましたね。正直、出番はないと思っていたので、出てきた瞬間びっくりしすきて頭が真っ白になりました。頭が真っ白になるって本当にあるんだなと思った貴重な経験です。

今のところ降谷の映画登場作品=風見の映画登場作品となっていますね。風見が「公安の降谷零」のために生み出されたキャラクターであるため「公安の降谷零」として降谷を動かす際には必要なキャラクターだからなのかな、と思います。実際、「黒鉄の魚影」では風見の出番は僅かでしたが、登場した際は「公安の降谷零」と共に描かれていましたね。「バーボン」とではなく。

この件に関して、個人的な解釈をお話ししたいと思います。

まず、「黒鉄の魚影」の降谷は「黒の組織の幹部・バーボン」として動いている場面と「公安の降谷零」として動いている場面があります。見分けるポイントは目の描かかれ方です。「バーボン」としての降谷の目は瞳孔が目立つような描き方に、「降谷零」としての降谷はバーボンよりもハイライトが目立つような描き方(他のキャラと同じ描き方)になっています。それにより、彼が今どの立場で動いているのかがわかるようになっています。

風見の登場シーンについての話に戻ります。風見が黒鉄の魚影で出てくるのは、降谷とコナン・赤井の電話シーンの後です。電話が終わった後に降谷は何かを考えるようにその場から動きません。その直後に風見が降谷の名前を呼びながら現れる。一度目の呼びかけでは反応せず、二度目の呼びかけで、彼は風見に返事をする。そしてそのシーンでは降谷は「降谷零」の目になっている。目の描き方、そして風見の存在により、今彼は「公安として」仕事をしているのだとわかります。

本筋には関係ない場面での風見の登場は、作中で立場を変えながら行動している降谷があの時は「公安の降谷零」であることをわかりやすく示すためのものだったのではないかと思っています。風見裕也は、降谷の部下の中の唯一のネームドキャラであり、三つの顔を持つ男の「公安警察・降谷零」の側面を象徴するキャラクターなのだと、私は感じています。風見が側にいるならば、隣にいる降谷はバーボンではなく「降谷零」である、と説明をせずともわかるようになっているのだな、とあのシーンを見て思いました。

次は、スピンオフ作品「ゼロの日常」の風見についてです。

ゼロの日常での風見は、映画の風見よりも、コミカルで表情豊かなキャラクターになっているように感じました。

降谷に説教されてしょんぼりしたり、降谷に褒められて笑顔で喜んだり、激辛カレーを苦しみながら食べたり、降谷のペットと一緒に寝ちゃったり……。

私はゼロの日常をハロウィンの花嫁を観た後に読み始めたのですが、劇場版の風見との違いに、正直最初は驚きました。劇場版の風見は不憫なところはあるけれど、あまり表情を変えない淡々としていてクールな印象があったので、スピンオフではこういうギャグっぽいキャラでいくんだ……という戸惑いがありました。劇場版の風見は好きだけど、スピンオフの風見は愛せるだろうか……と不安になりながら読んでいましたが、今ではゼロの日常の風見もかわいくて好きです。

映画の風見とは違う、スピンオフならではのコミカルで親しみやすいキャラクターの描かれ方があるからこそ、風見というキャラクターの幅が広がった気がします。そして、その幅の広さが、風見の魅力にもなっている気がします。

そんな、映画とは違う描かれ方をしている風見ですが、映画と共通している点もあります。

それは「降谷に忠実であること」です。

スピンオフの風見は、仕事だけではなく、降谷の服を選んだり、降谷のペットの世話をしたり、飛田名義で降谷と共に野球をしたり……ともはやそれは仕事ではないだろうということまで降谷のためにしています。

ゼロの執行人の話をした際に、「風見が降谷に忠実なのは、降谷の指示がこの国のためのものであると信じているから」と書きました。しかし上記の行為はもはや国のためとか関係ないですよね。

その答えとなるものが、ゼロの日常4巻に収録されている「頼んだぞ」に描かれていると私は思いました。

この話は、原作とリンクしている話です。原作94巻の「ストラップを探せ」で、降谷が風見に電車に乗るように指示した際の、風見側の話が描かれています。風見は戸惑いながら降谷の指示に従い急いで駅に向かい、電車に駆け込み、窓に息を吹きかけるよう言われ、周りの目を気にしながらそのよくわからない命令をこなすも、降谷からは説明もなく電話を切られます。こう書いてると本当にかわいそうだな風見……。

私なら上司にキレてる気がするのですが、風見はそんなことはしません。それどころか「まあいっか……。降谷さんの役に立ったのなら……」となんとも健気な発言をします。

この発言が、ゼロの日常での風見の行動の答えなのではないでしょうか。

ストラップ回では、降谷のよくわからない命令を「何かの捜査」と思っていたようですが、そうじゃなくても風見はきっと、降谷のために動いていたと思います。他の、服を選んだり、ペットの世話をしたり、野球やラグビーに付き合ったり……も、全て「降谷の力になりたいから」という思いがあるからこそなのではないか、とその台詞を見て思いました。何気ない台詞だけど、私にとっては結構衝撃的な台詞でした。この国のため、だけではなく降谷個人のために動いている部分もあったのか、と驚きました。

ゼロの日常では、川で溺れた子供を助ける風見の話もあります。危険を承知で川に飛び込む彼の姿を見ると、ゼロの日常の風見もやはり「この国を、そしてそこに住まう人々を守る」という信念があるのだな、と思います。学んだことを思い出しながら子供を助ける風見はかっこよかったです。ギャグ要素が強めに出てるな、と思っていましたが、かっこいい場面もちゃんもあるのが嬉しいですね。

最後は、原作の風見についてです。

原作の風見もやはり、劇場版の風見とキャラが異なる印象を受けました。原作の風見は、「降谷の前では」感情が顔に出る素直さがあります。嬉しい時は、満面の笑みになり、驚いた時は大きなリアクションをし……ゼロの日常と同じく表情豊かでコミカルな面があります。しかし一番差異を感じたのは、上司である降谷への態度です。

「降谷さんだ!!助けに来てくれたんですね!!」「やったー、これで助かる」「次がやっと沖野ヨーコさんの出番なんですよ!!」「んなモン放っといてもどうせ……」

今挙げたのは原作で風見が降谷に言った台詞の一部ですが、これを見ただけでも、劇場版の二人とは少し違った関係性であることが窺えます。原作の二人は劇場版の二人よりも、距離が近く、砕けた話し方ができる仲なのでしょう。将棋といえば、と降谷に風見が名人の話をしたり、降谷が、風見が沖野ヨーコのファンであることを知っていたり、降谷が電話をかけてきたら嬉しそうに次がヨーコの出番であることを話したり、といったところからも、何気ない世間話をよくしているのかな?と思いました。なんというか、仲がいいですよね。

さて、そんな風見ですが、ここでも映画やスピンオフと共通する点があります。やはり「降谷に忠実なところ」です。原作の風見も、ストラップ回や、降谷vsキッド回などを読めばわかるように相変わらず降谷の指示に振り回されています。特にキッド回では、非番で、しかも推しが直接目で見れる貴重な機会で、出番はようやく次、というところまで来て呼び出されています。一応、仕事という名目でしたが、降谷の私情により呼び出されているのでほぼ私用だと思います。私だったらキレてるところですが、ここでも風見は怒ることも文句を言うこともなく、降谷に従い、降谷のために推しの生歌を聞ける機会を投げ捨てて、駆けつけています。偉すぎる。宝くじ100億当たってほしい。しかもこの後に「用が済んだから帰っていいぞ」と言われたりしています。私だったらハア!?と文句言ってるところです。風見も言い返してましたね。ここでその時の台詞を見てみましょう。

「えーーっ!最後まで居させてくださいよ!」

これです。これですよ。いきなり私用で呼び出して推しの生歌聞ける機会を潰して用が済んだら帰れと(非番だから早く帰してやろうという気遣いだとは思いますが)言う上司に、言い返した言葉がこれ。

これを上司相手に言えるのは、言っても許されるとわかっているからだと思うのですが、そう考えると本当に仲が良いな……と思います。結構砕けた関係性なんですよね。軽く文句も言える仲。それでも風見は変わらずに降谷に忠実であり続けるんですよね。

原作の風見は、ゼロの日常の風見の描かれ方に近いな、と思っていましたが、ちゃんと劇場版の風見のようにクールな面もあります。それがわかるのが、先程も挙げた、降谷vsキッド回です。

降谷の前ですと、素直で柔らかな面を見せてくれますが、他の人間、例えば中森警部などには高圧的で淡々とした話し方をします。劇場版とはキャラが違うなあと思っていましたが、そういう形でクールな一面も描いてくれるとは、と唸りました。顔を使い分けているという点では上司と似ていますね。どちらの面もあるからこそ、そのギャップに魅力を感じます。

ここまで、映画、スピンオフ、原作とそれぞれの風見についてお話してきました。

作品によって異なる顔を見せてくれるからこその幅広いキャラクター性、クールとコミカルのギャップ。どの作品でも共通の信念と上司への忠実さ。大きく異なっている部分もあれば、変わらない部分もある。そのどちらもが、風見の魅力であると思いました。また、超人キャラが多い中でも、思わず親しみを感じ、応援したくなる「普通さ」も、私が風見を好きになった理由の一つです。

純黒の悪夢で初めて風見を見た時は、まさかこんなキャラクターになるとも、そして自分がこんなに好きになるとも思っていませんでした。人生何があるかわからないものですね。登場する度に新しい面を見せてくれるので、次に登場する時はどんな一面を見せてくれるのか、ドキドキする気持ちもあり、楽しみでもあります。

また原作や映画、スピンオフ(復活待ってます)での出番を心待ちにしています。

ちなみに余談ですが、風見は身長も作品によって異なります。映画やアニメでは風見の方が身長が高く、ゼロの日常では、映画よりも身長差が縮まっているようですが、風見の方が高い。しかし、原作では風見の方が降谷より1cm身長が低い(原作者談)らしいです。逆輸入キャラならではですね。

@yorunosoko
日々思ってることを書く