どんどこバカスカものを捨てられるようになってはいたのだが、ひとつだけ「どうしても無理!」というものがあった。ぬいぐるみだ。ぬいぐるみ、それはいのち。いのちを宿ったものをどうして捨てられようか。ずっとそう思いつつ、いまの自分には必要がない、持て余す量のぬいぐるみを所持していた。ほこりも被っているし、汚れもあって寄付できるレベルではないものばかり、お焚き上げをしてもらおうと考えていたけれどそれはそれでお金がかかってしまう。どうしたものかと考えていたが、今日いきなり解決しましたのでご報告いたします。
まず、自分のものではないぬいぐるみも家に存在していた。身バレするかもしれないけれどもともとうちは保育所だったので、キャラもののぬいぐるみを母が追加で買ったりしており、完全に私のものではないものがそれなりにあったのだ。とりあえずそれを別の場所にどかそうと思って、ふと大きめのビニール袋に放り込んだのだけれど、「あれ、このまま捨ててもいいかも」。今までになかった感情が芽生えた。そのままビニールの口を閉める。苦しい気持ちにはならなかった。もしやこれは、と思って自分のぬいぐるみたち(もういまの私には必要ないと判断して仕分けてあったもの)をビニール袋に入れる。布の袋に入りっぱなしのものもそれごと入れる。仕分けてあったものの中にも、袋の中へ入れるのに抵抗を感じたものは保留にしつつ、ほいほいと作業を進める。40Lのビニール1袋ぶんがいっぱいになった。この子たちの肉体が滅びても私は何も感じないのだ、と確信を得た。つまり、やわらかな子どもの感性は完全に失われたということだ。私は21歳になった。まだまだ若いと言われる年齢ではあるけれど、確実に老いのようなものは迫ってきていると思う。老いはネガティブな文脈で語られることも多いけれど、私にとってはいまのところよい面しか感じられていない。いろいろなものが鈍っていくということは、気にすべきものが減っていくということだ。それってとても楽じゃないか。豊かさという観点から見るとマイナスなのかもしれないが、生きづらさは確実に減ってきている。歳を重ねるとともに。ぬいぐるみを手放せなかった私より、手放せる私のほうが自由だと感じる。ほんとうは手放したかったから。でももう、ぬいぐるみの類は集めないし買わないと思う。これは長く背負っていく業のようなものだから。ぬいぐるみを手放したい、と思ってから5、6年はかかった。10代のそれはひどく長いものだ。これから先の20年分くらい長いと思う。もしかしたらもっとかもしれない。その時間の中で、ゆっくりと死んでいったものが確実にあったはずだ。
ものを手放す方法はさまざまあるけれど、「時間経過でどうにかなる」場合もあるのだとはじめて知った。もちろん、それだけに頼っていてはものは溢れかえるだけなので、まず「あきらかなゴミ」と認識できるものがあるならばそこから手放していくのがおすすめだ。べたべたになった缶とか、使用済みのティッシュとか。それも「いつかは使えるよ」のカテゴリに入っている場合はちょっと骨が折れるけれど。理想としては「いつかは使えるよ」が「いついつに使うよ」にすべて変換できるようになることだというのが個人的な考えだ。まだまだ私の手元には有り余るものたちが残っている。捨てまくるフェーズはようやく終わったようなので、今度は残ったものをうまく使えるシステムを構築しなければならない。もちろんときどきは捨てなければならないけれど。これはやや極端な考え方だけれど、大量生産・大量消費の時代に生まれてしまったからには捨てる勇気というものもたいへん重要なものになってきていると思う。もので溢れかえっている自覚があるならば、「時代に適応する」という覚悟を持って捨てまくればいいんじゃない?と私は考えている。必要なものすらなかなか得られなかった時代ではなくなっているのだ。まず減らして、次になにを増やすか、もしくは増やさないかという選択をしていけばきっと大丈夫。捨てまくった結果ものを買うのに慎重になったな、という感覚があるので、とにかくまじで手元のものを減らしたほうがいい。もちろんひとによって管理できるものの総量は違ってくるので、これならOKというラインは一律に存在していないのが難しいけれど。
と、いうわけでやや脱線したものの老いってサイコー!というお話でした。あとみんな捨てまくろ。捨てまくった先にキミの未来はある! もう管理できてますけどというひとはごめん。とってもすごい。私はまだ無理だ。これから管理のためのシステム構築をがんばります。なにかまた気づきがあったらこうしてここに書き残すと思うので、読んでくれたらうれしい。みんなハッピーに生活してくれよな! 人間のこと大好き! これを読んでくれた人間のことはもっと大好き! でっけ〜愛をこめて。